かにみそさそり座

のーみそこねこね

自分の同人誌と二次創作

文が書けない危機感がヤバめなので、今回はなぜ私がいま二次創作しているのかと自分の同人誌について書きます。
ワートリの感想ではないです。ワートリのことが好きだという話ではある。
リハビリ自分語り。そのためのブログ!
人生が狂った話です。
 
 
 
私はいちクソオタクソフジョシとしていまワートリの二次創作をしていて、いまのところ四冊同人誌を出しました。6月にもう一冊増えるかもしれないけどこれは本当に微妙です(こんなことしてるので)
はじめて出した同人誌は当奈良です。去年の四月。夏に遊真の本を二冊、2月に当奈良を一冊作りました(プチオンリー最高でした……何度も噛み締めてます……本当にありがとうございました……!)
お手に取っていただいた方、ありがとうございます!
 
いまのところは当奈良か遊真の本しか出していません。描きたいこといっぱいあって描ききれないのでその時好きだなと思ったところを描いています。いま原稿中で、近界民の話なんですけど、これもガロプラの話がちょっとひと段落したいま好きなところを私の好きな理由で描きたいから描いてます。
なぜ本にしているのかというと私の好きなところを本の形にすると私がとても幸せだと感じているからです。今回はそういう話をします。
 
人生の半分以上オタクをやっているのですがはじめて出した本が「ワートリの当奈良」という事実が、私的には実はとても大きな意味を持ちます。時期や金銭的理由からハマっても本は出せなかったというのもありますが、出さなかったという側面もあります。
私は長年好きな作品への解釈を本のような形あるものに固めるのが「苦手」だと思っていたから。
 
 
 
長々と自分語りをします。
これまで私は二次創作の自由度の高いジャンルで二次創作を楽しんでいるオタクでした。私の二次創作の礎は「テンミリオン」という今年14周年を迎えるブラウザゲームでずっと、いまもゾッコンで、このゲームのすごいところは「公式設定がほとんどない」というところです。信じられないほど二次創作の自由度が高く、ご本家が二次創作を許容しております。ご本家には交流掲示板の他に小説掲示板とイラスト掲示板が存在し、プレイヤーは各々自由に自分の「テンミリオン」を投稿することが出来ます。
幼い頃からストーリーやキャラの性格や世界観設定などを数多作り上げキャラクターの掛け合わせや性転換だって無限に楽しみましたし(そもそも性別が明確には設定されていません、性別という概念自体からプレイヤーが世界観を構築出来ます)現代モノだろうが学園モノだろうがなんだって書きました(おそらく魔法や剣のファンタジーな世界観のゲームなのでしょうがそれすら「公式設定」と言及されていないため魔法や剣がどういったものかを自身で解釈出来ます)じゆうちょうを何十冊と使い果たし、毎日小説を書き、絵を練習しました。ある意味で私の創作の原点ともいえる作品です。
テンミリオンにおいて「解釈違い」に対する嫌悪感は、少なくとも私にはありません。テンミリオンのユーザーはそれぞれの二次創作を発表し、オープンコミュニティでありながら体感的にクローズドコミュニティであるご本家でそれぞれの創作性を楽しんでいました。私がはじめて個人サイトを作ったのもテンミリオンでした。
そんな中とある解釈でのとあるふたりにどハマりして、その解釈でのふたりをCPとして愛でまくるようになりました。ブロント×闇の精。
 
「彼らは半神であり、互いの半身だ。彼らを取り巻く世界では片方は神性を持ち、片方は人間的だ。器のみを殺される方は右で、相手を殺すことで自身の存在が死ぬ方は左だ」
 
と考えました。
これは私が私の思想から抽出した好みの成分のうちのひとつで、あらゆる好きな作品の好きなところを突き詰めた時、テンミリオンの少ない「公式」設定(「プレイヤー軍のリーダーはブロント」「クリア条件は闇の精を倒すこと」など)に合致すると解釈したからです。
それからは思想をシステムに反映させることでテンミリオンの二次創作を楽しむようになりました。他にもポケモンリヴリーにハマり、ゲームジャンルという側面からか、思想をシステムに反映させることで比較的自由度の高い二次創作を楽しむことが出来ました。私がメタフィクション的な創作観を好むのもここに起因しているように思います。
記事の主旨のため言及しませんが、テンミリオンもポケモンリヴリーもいまも大好きです!ずっと好きです。
 
こうした二次創作が否定されないところは「公式」の文脈が極端に少ないからこそ、なジャンルの特質も理解していました。当時別媒体の作品にハマってインターネットで個人サイトを巡っては「理解出来ない」二次創作に直面したことは数知れず……しかしその作品の「公式」という原作への解釈が違う・読み解き方が違うのは当然です。私はますます自分の好きな読み方のみを閉鎖的にすることを拗らせます。個人サイトの人間なのです。
私は当時好きなCPに対しかなりヤバめのクソオタクソフジョシの自覚がありませんでした。たとえばテニスなら真幸でバスケなら高緑で緑赤でチャリなら石御で東巻で真東を推していたのですが(今はだんだん好みのところがシフトしたのでそもそも読み方が変わり、これらのCP過激派ではないです!)いろいろと他にもあらゆる構造にもえてCP観をいっぱい発見して……いっぱい……星の数ほどハマりにハマり……あらゆるもえに貪欲になり……多様化し……よりクソオタを拗らせました。
 
それからは好きな作品の二次創作にあまり積極的に触れずにいました。原作という「公式」があるため、自分の解釈と大幅に異なる解釈をする二次創作を見るとそれに感化されて、自分の考えていたあらゆるもえは原作の何に・どこに合致するのか、何が好きなのかを考え、作品の持つ思想と自分の思想とを掛け合わせて好きなところを捏造しているのではないか?と思い始めてしまうからです。そもそも作品の持つ思想とは何だ?正しさとは何だ?「公式」のみが正しいのか?こんなことを考えることは間違いかもしれない、こんなことを考える時点で私には作品への愛がないのでは?
私はバカです。
自分の二次創作観に縛られ自分が絶対的に正しいという意識を持つことに根本から恐れがありました。自分の好きな面があり思想信条もある人間なのに、それに反する面の可能性に直面した時、殺意と向き合わなかった。
 
そもそも、いろんな読み方がしたいのに、まず自分の読み方をきちんと形にして持っている意識がなかったのです。
 
二次創作の自由さは不自由を内包していて作品そのものを読んで純粋に楽しむということが困難になってきていました。
当時手書きブログやpixivでの二次創作界隈が賑わいを見せ始めSNSが二次創作の荒波に飲まれていく頃で、個人サイトの頃より他人の二次創作を簡単に拝見できるようになったこともあり、二次創作そのものに鬱々としていきました。私は週末しかネット環境のないこともあり、どんどん鬱々として、自分でも知らないうちにますます自分の解釈に没頭します。今思えばなんてバカなのだろうと思います。
この「無意識のうちに確立した解釈を固定して持っている」という状態。これに私はとにかく吐き気がしていました。解釈を固定する自分にすさまじい自己嫌悪を抱いていました。自分が二次創作に没頭すればするほど、作品への愛情に正しさを求めていき、その反面、二次創作への熱意をどんどん失っていました。
今思えば、なんて、バカなのだろう、と思います!
 
しかしバカなので、身の内のみで燃え盛る作品への愛憎ととっくに消え去っていた二次創作への熱意の区別が出来ず「そろそろ二次創作をやめよう、ただのオタクに戻ろう」と薄々思うようになりました。疲れていました。クソオタ拗らせすぎていた。サイトを縮小して、昔の絵をゴミ箱へ投げ込み、SNSの作品を全消しして……もう何かに熱を上げることもないだろうな〜自分の人生の中で二次創作はそろそろ潮時だな〜とぼんやり考えていた頃、
 
ワートリに出会いました。
 
元々私が好きだった二次創作は、対象の作品をファンがそれぞれ自分自身の解釈で楽しむということです。考え、解釈するということそのものが「楽しい」ということが好きでした。「正しさ」の強要されない自由度の高い世界。
ワートリの淡々とした作風と世界とキャラクターの関係。キャラクターが物語のためのシステムとして消費されないけれど、物語が世界のためのシステムとして機能しているところ。とてもサイコー!言葉がうまく扱えないけれど、整然とした煩雑な作品だと感じました。
私は前述してきたように、システムに思想を反映させることが二次創作をする上でとても好きです!たとえばトリガーチップを選別するキャラクターたちのカスタマイズという思想の形。ゲーム的です。システムに思想を反映させていくキャラクター、という面を持つ作品を、読者である自分が自らの思想を反映させて読み解くこと。メタフィクション的です。好みの読み方が自然と出来る!
 
何よりそれが「正しさ」で断罪されない!
 
私はとても胸が熱くなりました。ワクワクしました。以前も書きましたが、想像することを否定されないことがとても嬉しかったです。もちろん作品そのものがとてもおもしろいんですが、というかそっちがワートリを好きな理由のメインなのですが、自分がクソオタ人生のがけっぷち瀬戸際であったこと、読まずにクソオタをやめていたかもしれないことを考えると胸が詰まります。読んでみようかな、と思った自分のことがいまはすごく好きです。かつてバカみたいに正しさや愛情を資本にしていたのも含めて、いまバカみたいに作品を読むのを楽しめていることが幸せです。たぶんワートリじゃなくてもハマれたのかもしれない。でもワートリでした。私にはワートリでした。
だから私は、ワートリに人生狂わされました、といつも思ってます。
 
いつの間にかいっぱいらくがきをしていて、だんだんワートリで二次創作を楽しみはじめて、ファンがそれぞれ作品に対して自分の頭で考え真摯に向き合っている空気に触れ、自分もウキウキとネットに絵をあげるようになり、2014年秋、とうとうワートリのオンリーイベントに行きました。イベント一般参加、とんでもなく久しぶりでした。
私はイベントでは本をたくさん買ってたくさん読みます。自分にはない視点を感じられるからで、毎度言及してきましたがそれがとても楽しいのです……読めば読むほど、私も自分の視点での二次創作がしてみたい、そして数々の素晴らしい本のように、私も自分の頭でワートリを好きな証として本が作れたらいいな、とむくむく思いはじめ、2015年4月、ついにワートリで自分の本を出し、人生初サークル参加をしました。
 
私は二次創作をする時に「捏造注意」という言葉をあんまり使わないようにしています。読む人にとって二次創作は全部捏造だからです。このへんに「公式」への感情を捨て切れていないのですが、それでも、二次創作では、自分の読み解き方をして、解釈への明確な意思を持って描いています。というかそうありたいと思っています。曖昧な言葉を使うのはせっかく二次創作してるのにそれらの肉付けを削いでいて、よくないなと思っています、いまは。
ずっと殺意を隠していました。愛ばっかり詰め込んで二次創作をしていました。いまもおおっぴらに「殺意と愛を持って描きました」というのがすごく苦手です。でもなんとなく、ワートリを読んでから、そうした思想を変に隠さずにいようと思いました。バカな感情をいっぱい抱えてきたので、隠そうとしても歪だし、どうせなら形にして、自分の二次創作はすごく歪だけど自分で愛でてあげよう、と思うようになりました。メタフィクション好きの私には、みんながみんな自分の頭で考える生き方をするワートリの、キャラクターだけでなく読者である私自身もそれを許されているように感じられるところが大好きです。いまはひたすら自分が楽しくなるために二次創作をしています。
スタンスとして、殺意と愛を持って二次創作をしています。
 
 
 
長い自分語りをしました。すみません。
自分語り楽しいですね。そういえばこのへんのことを語ったことがなかったなといま気づきました。
いつも同人誌のあとがきに書いている、「ワートリに人生狂わされました」という言葉、全く冗談じゃなかったんですが、その文脈を述べたことがなかった。私が勝手に狂っただけなので、なんだか責任転嫁してるようですが、違わず真実です。
ワートリに人生狂わされました。
 
 
 
当奈良がいかに素晴らしいか。
当奈良は互いの半身で、狙撃手界の半神です。(関係ないけど穂刈のセリフ大好きです、チカちゃんという新しい波が来たのすごく楽しい!縛られない自由な才能ともど真ん中ロボット狙撃ともその他の狙撃手とも差別化される、火力モンスター!)
私は、右の方がより概念としての神に近い存在であり左は人間だ、器が殺される方は右で相手を殺すことで自身の中身が死ぬ方は左だ、というひとつのCP観を、何年も、本当に何年も構築しているクソオタクソフジョシです。
そして彼らが別の生き物でありながらそれぞれがそれぞれの在り方で世界で息をしていて、それがとてつもなく美しいことを心底愛しています。同じ狙撃手なのに別の在り方なのが美しくて好き。
なので、私の読み方だと当奈良だろうなと感じてます。
ちなみに「別CPが嫌いだという話」と「描く対象が固定CPだという話」は私においては全然別です。奈良当が読めないという話ではまったくない。当真の他CPや奈良坂の他CPを受け付けないという話と私の読み方が当奈良である話はまったく関係がない。たぶんある面で解釈したら私の当奈良は冬当だし奈良三輪なんだということもわかっています……だって原作読むと「うわ~~~ここすごい構造がもえる!!!」てなるキャラクター多すぎる!ワートリ楽しすぎる!……バカ……好きです!
私はこのふたりの関係を長年のクソオタクソフジョシとしての思想信条と一致したため「描くCP」は当奈良に固定したまでです。
なぜ当奈良か。
彼らが、別々の生き方をしていながら、決して互いを否定しないからです。「俺らにかかりゃ楽勝」「当然」それはかつて二次創作に鬱々としていた私が、何よりも求めていた、理想的な他者との在り方だったからです。信じられないほど美しい歪さ。
だから私の人生ではじめての同人誌は「ワートリの当奈良」です。
 
私は当真と奈良坂に、前述した私の好きなCP観をほのかに感じ、ほのかなにおいを悪臭にするのがたまらなく楽しいんだよな、と思って、二次創作をやめようとしていたバカな自分への思想信条の表明のためにも、同人誌という形あるものを作ろうと思いました。「苦手」だと思っていた形ある解釈の塊を。
私のための武器として。
当奈良が大好きだから!当奈良が!!!大好きです!!!!!涙が出るほど!!!
 
 
 
自分の本の話をします。
 

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はじめて出した本「犬と猟銃」を描いた時、私はふたりのことを私なりのCP観にどうして固定できたのか考えました。
当真さんについて、外れる弾は撃たない主義であり警戒区域を平らにすることを過激だと言及するところに、この人は理想を抱きながら戦場に立つことのできる、ロマンによって敵を殺し己の精神を殺されてゆく人だと思い、更に冬島さんの部下であり、隊長の能力を信頼して罠を使うことのできる隊員であり、現実を理解しながら戦場において理想的な優位性のある在り方を考えて行動する人の子だ、リアリストだ、神の力を手にしながら魂は神ではない、その上NO2の奈良坂に対して「だからお前はダメ」と伝えることでNO1である自分の優位性を表す半身を殺す子だ、だから左だ!と思いました。
奈良坂について、三輪と米屋がうまく近界民を殺せるよう動きを制御するための狙撃を行えるところ、戦場において戦力を整えるための助力として狙撃を行えるところに、この子は能力を把握して動く子でありながら自身の能力を信頼しているから外して舌打ちをすることができる、ロマンチストだ、しかし一度己の家という器をより優位な近界民という存在によって壊されることでボーダー隊員としての魂を新たに吹き込まれた子だ、抜け殻に空虚な精神のみを宿す、器は人間なのに魂が神に近い子なんだ、しかも当真さんの狙撃の腕前に人間であるボーダー隊員としての器を壊されているNO2の子だ、だから右だ!と思いました。
その上で、「ふたりは隊員である」ということに非常に好感がありました。個人でありながらチームに所属している隊員という点!
生きている人は多面体。私はそこがとても好きです。
だから本を描くなら、冬島さんの存在は絶対に削れないと思った。当真さんを形成する言葉としての「NO1狙撃手」は「A級2位冬島隊(戦闘員は二人しかいないうちの)狙撃手」の側面を持つし、やっぱり当真さんが「うちの隊長」て呼ぶ存在のことを描かないのは無理だった。冬島さんが好きです……!当時、狙撃手訓練の「自由な才能〜」のシーンまで出ていなかったため、奈良坂は、当真さんへ「あんたも撃ったらどうだ」と狙撃を促すシーンから「当然だ」のシーンまでに、当真さんの狙撃手としての在り方を理解する過程を踏んでいるはずだと妄想しました。(でも理解していたけれど物申した奈良坂の可能性も大好き……)
描きたいものがぼんやり決まり、ふたりがふたりをどう認識するかの話にしようと思いました。誰かによって形作られる関係と自分自身の居場所をどうやって理解したのか、を、当奈良はつよく妄想できると思ったので、「犬と猟銃」を描きました。ワートリの当奈良がいかに魅力的なのか、自分の読み方で、はじめての本であることを含めて、自分がワートリによって形作られていることを象徴する、自分を殴る本が作ってみたかった……殺意と愛を込めて!
うまれてはじめての同人誌。とても拙いけれど、とても楽しかった〜〜〜!
 

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その後、もともと初読から遊真が好きで、「死んだ子が自分自身の葬式で喪主をしている」という器と魂の概念を愛していることもあり、自分の読み方での遊真の本を二冊描きました。自分のための本だ……相変わらず拙いですが、やっぱり気に入ってます。遊真がいかに素晴らしいかの話はいつでもしたい。いつもしている。いくらでも出来る……これはまた後日にします。たぶん。楽しかった〜〜〜!!!
 

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そしてまた当奈良を描きました。プチがサイコーだった……本当に!すごかったんです!!!当奈良はサイコー……脱線しました。
原作が進むにつれ、ボーダーに存在する当奈良がいかに素晴らしいか、私はまた私の読み方をまとめなきゃいけない!描きたい!とつよく思って……描きました……描きたくてたまらなかった……
彼らが所属しているボーダーという組織、冬島隊と三輪隊という括り自体が、「私がワートリを読んで当奈良を当奈良として認識したこと」の証なんだと感じてます。はじめて作った「犬と猟銃」が当奈良の互いへの認識の話なので、彼らの在り方ぜんぶ含めて、当奈良を読者が認識する話にしたいと思いました。読者というか、私が。絶対に当奈良のことを一緒くたにして消化なんかしないぞ、という本なので、とても気に入ってます。サイコーに楽しかった〜〜〜!!!
 

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いまは近界民の話を描いてます。いつになるか微妙ですが本にしたいと思ってます。また本になった時に、自分が「楽しかった」と思えたらいいなと原稿中です。
 
 
 
いつもうまく語れないけど、ワートリの二次創作、本にしてよかったといつも思ってます!自分の二次創作を塊として手にすること、すごく楽しいです。それを人様にも手に取っていただけることもすごく幸せです。殺意と愛を込めていますが、それが本になると、歪な湾曲さえ幸福のかたちをしている気持ちになれるので、とても楽しいです。正しさではなく、その時の楽しさを詰め込んでいくことが私にも出来るのだな、と感慨深いです。愛憎と熱意が渦巻いてるからね。楽しさや自由は縛られるものではないって当奈良が言ってたので(言ってない)変に囚われずに二次創作出来るのも幸せです。いろんな本があるから私のハズレ本をアタリだって言ってくれる方がいるかもしれないし……夢見てますけど……感想とても募集してますけど……「公式」として正しくなくても、私の頭の中では正しく楽しいものを描いているんだ……と思えるようになり、少しほっとしてます。誰もが別個の人間である話が優しくて好きで、バカなのでやっぱり楽しいです。
 
いろんな読み方がしたいのにまず自分の読み方をきちんと形にして持っている意識がなかったかつての私があって、いま、自分の好きなところを形にするためのブログや同人誌を書いていることがとても楽しいです。リハビリですけども……
私は賢くなれません。
二次創作がいまとても楽しいです。
長々、終わります。また無為に記事を書くぞ〜〜〜