かにみそさそり座

のーみそこねこね

オタク人生の責任と遊真への憧れ

これから現実がバタバタするので今のうちにオタク環境を整えておこう、と思って部屋の掃除からサイトの整理までちまちまといじっている最近です。

その一環でここのブログもきれいなテーマに変えたら、なんだかきちんと更新していきたいなと思った。単純。いままで読まれることへの意識がなんだかんだあって、ネットで文章を書くって責任が重いよな〜〜という意識がやっぱりどこかにあって(いまもある)ある程度自分の中で言葉になっていることでも書けずにいたことがある。サイトやツイッターをやっていてちらつくことで、せっかくやる気が出たんだし熱いうちに叩いておこうと思って、深夜に記事を書いてます。

脳内で思いつく言葉は常体敬体がめちゃくちゃなので、今後はこのブログ(※脳みそアウトプット用)も文体めちゃくちゃでもいいか、程度の気持ちでやっていこうと思います。そのへん今までもあんまり気にしていなかったし。

せっかくだから、この感覚について書いておこうと思った話。

 

 

 

先日ゲームプレイ記録の場所を作った。サイト、Pixiv、ツイッターtumblr、ギャレリア(放置していた)、手書きブログ(放置している)……私は基本的に自分の外ヅラが好きなのでいろいろ語る場所を作りたがる方だ。自覚している。個人的に、「完璧に誰にも読まれなくていいや」と感じるもの(どうでもいい現実の鬱憤や個人的な絵画制作のための屈折したところ等)はネットに置く必要や価値がないと思うので、そういうものを発信する裏アカウントの類は一切ない。小さい愚痴とか発信しておくべき怒りや地雷については適当にいまのアカウントやサイトで呟いてしまうし(すみません)わざわざ裏アカウントで発信する程度の考えはオフラインでメモを取るくらいの距離が私には心地いい。そういうものって私にしか必要がないので。それならどこかにやって失くしてしまっても他人に影響や迷惑をかけずに自分でも忘れられる、と思っている。

けど、そういうのがよくないな……て気持ちがどこかにある。

 

実は「ワートリの空閑遊真のように、自分に責任を持ってオタク人生を生きていきたい」という思いが、最近、めちゃくちゃある。

 

どんな作品でも、推しを見てると、責任を持って自分という人格をつくるのは大変だな〜と思う。私は結構いろんなタイプのキャラを推すけど突き詰めたら燃えの源流はそこだと感じる。ワートリを読んでいるとキャラがきちんと責任を持って動くから、本当にこの作品はすげえな……としみじみ思うし、その後に自分の黒歴史を思い返すと顔を覆いたくなる。ひどかった。またいつか内省のために書いてもいいな、もうちょい落ち着いたら、あるいはもうちょい混沌としたら自発的に書きたくなると思うから、きっといつか書くだろう。脱線。

裏アカウントについては必要がないという思想というか理想があるので全然どうでもいいなと思うけど、私はいま使っているツイッターアカウントにゲームのスクショをたくさん載せたままにしておくのがなんとなく嫌で(これ、他人がやっているととても楽しそうでワクワクするのに、なぜ自分がやると自己嫌悪に陥るのか謎。おそらくその瞬間は楽しいんだけど、自分大好きゆえ、後々見直した時に過去の自分の浮かれポンチ具合に引いて消してしまうのだと思う)……それでもゲームについてその時に思うこと、嬉しかったこと悔しかったこと、どうせならスクショごと書いて残しておきたくて、冒頭のゲームプレイ記録としての場を作った。いまのところとても気安い。

 

この一連のやり方や、ここのブログや個人サイトもそうだけど、「未来の自分がいまの自分を見つめ直すための発信が好きだけど、そんなに人に見てほしいわけではないな、でも見られてもいい、見てくれて何かしら感じてもらえたらとても嬉しい!」程度の距離がやはり自分には合っていて、心地よいと思う。現実で描いている絵もそうだけど、ある程度の人にフラットに見てもらって、そのうちの一握りの人の心に、ほんの少しの影響があるくらいのものをアウトプットしたい、という気持ちがある。

 

しかしこれは、逃げなのだ。

私は空閑遊真のような人間になりたいと思いながらも、自分以外への影響を飲み込んでそのぶんも責任を取ることが出来ないのだ。ネットで何か発信したらそれに責任を負うのは基本的に発信者で、「内省目的・自分のため」が大半だがやっぱり他者に発信しているため、私のオタク活動(ネットに限らずオフ活動までしている)・オタク人生は、私の好きなものを「誰かに共有してほしい」という気持ちが伴う。私は、ヴィザ翁戦で逃げない選択をした上でのあの病院屋上の遊真のように、美しく世界と対峙していない。

 

つまり「未来の自分(※病院屋上の遊真)がいまの自分を見つめ直すための発信(※ヴィザ翁戦の逃げない選択)が好き(※それらを読む読者の私)だけど、そんなに人に見てほしいわけではない(※ヴィザ翁戦の遊真の頭によぎった、逃げない選択をした時の他者からの評価を必要としない修の在り方)な、でも見られてもいい(※ヴィザ翁戦のレプリカ)、見てくれて何かしら感じてもらえた(※読者の私)らとても嬉しい」……という、なんだかごちゃごちゃとした思いがあるのだと思う。わからないけどそんな気がしてくるから文字に起こすって行為はこわいな〜〜といま書いていて思う。

私はヴィザ翁戦の逃げない選択をした遊真が、逃げなかったからこそ修の責任まで取って笑えるところが好きで、そういう、好きな対象そのものと好いている自分の視点をごちゃごちゃにしたまま遊真を推しているのだと思う。正直な話こういう読み方や感想について「主観の介入しない読解なんてありえないよな」と思うので、好きに読むってそういうことだろうと開き直っている。だってワートリは「私の」好きなもの、だ。

 

そして前の記事のように「だからこそ空閑遊真を推せるのだ。完!」と言ってしまえば簡単だが、というか私の同人誌や二次創作物は「そういうところが大好き!完!」で終わらせているのだが、面倒なクソオタクなのでそのままにすることに抵抗がある。私は修と遊真のような良好な人間関係をそもそも築けていないし、そういうところを巻き込んでしまえるほどの責任を伴うことから逃げて、「どうぞ好きに読んでください」と発信したものを放置して終わることばかりしている。正直、誰かと理解し合うことをそもそもあまり重視していない性格なのだと思う。

逃げることすら選択肢に入れて考えさせてくれるレプリカの存在を好きなのは、そういう、情けない自分の二次創作物を見てくれる人を好きな気持ちとどこかで通っているのかもしれない……しかしそれを抜きにしてもレプリカのことを好きだと声を大にして言えるし、同じように、見てくれる人のことを好きな理由がある。どちらも、私のために存在している人間ではないから好きなのだ。理解し合わなくていいこと(※私はこの理想を当奈良に見ている)は、私にとっての赦しであって、そしてやはりそれは、責任からの逃げの理由にもなる……

 

だからこそいただいた意見や感想にとても心を動かされています。

どんなお言葉でも笑顔で受け取れるような心構えでいたいなと思う。いただいたお言葉への責任は私が持っているつもりです。先日イベントに出て、本の頒布をして、改めてそう思った。

今日いきぬきリクエストボックスを整理した。自分の同人誌に「遊真も一生懸命に生きてる、私も頑張ろうと思った」というお言葉をもらって、飛び上がるほどうれしくて何度も噛み締めて泣いたことを、改めて思った。こんな素敵な言葉を伝えてくれる人がいて、なんて幸せなんだろうと思った。私が遊真を好きな理由そのもので、それを形にしたくて同人誌を出したこと、形にしたことから誰かが感じ取ったことを形にして伝えてくれたことが嬉しかった。ありがとうございました。

私がオタクである自分から逃げずに好きなことを好きと発信したことと誰かとの、私にとって最高に幸せな形の関係で、そういうやり取りが私の好きな在り方なのかもしれないと思った。好きなことの共有がしたい、それがたとえお互いに違った観点であっても、伝え合って得た共有した面を自分の責任にしたい。遊真のような美しさは帯びていないけど、強欲な自分がオタク人生を歩もうと思ったらこうなるんだと私が分かっている。承認欲求とは少し違って(もちろんそういう面もあると思うけど)、他者とのボーダーを見極めて、自分と自分の好きなものの接する面がより大きくなるラインを考えたいんだと思う。

よく考えたら遊真は修のレプリカへの責任を自分の責任としているだけで、三雲修という存在すべての責任を取ったわけではないんだよな……だから記者会見前に修の在り方を思い出させて示すのが遊真なんだし、修は被害をすべて自分の責任としてしまうわけで……(やっぱり三雲修はこわいくらい世界を抱いてるな……)遊真が修と出会って遊真自身を大きなものとしたように、私もオタクとして好きなものについて誰かと共有して好きなものへの感情を大きくしたい。好きなものに対する理解の及ぶ内容を知りたい。だから「私にはわからなかった」とか「私はこういうことかと思った」みたいな観点をいろんな人と共有したくて発信するし、一握りの人が何かしら感じて伝えてくれたら、そこからまた自分の好きなものへの責任ある言葉を選び取るためのオタク活動をしたい。自分が自分であるための生き方を選択したい。

 

私と誰かは確実に別個の存在で、だからこそ接したときにお互いに影響し合って、その範囲のみの責任を共有して、どこまでが私の理解の及ぶ責任かを見極めているんだな〜〜というのが最近の所感です。人間が多面体であることを忘れずに在りたい。だから、ネットで発信していくことにある程度の責任を持っておこう、という気持ちになっているし、これが「いまの私に出来る私の好きな遊真の在り方」なんだと思う。似た生き方のオタクと好きなものを語りたいし、違う生き方のオタクと衝突して好きなものの別の観点を自分なりに考えたいなという気持ちもあって、やっぱり理想のオタク人生を生きていくのはまだまだ困難だ。

 

いままで、何でもかんでも加害者意識が強くて何かする度に他人への責任を取らねばならない気がしていた。そういうのがしんどくて、他人と良好な関係を築く意欲そのものがなくなりかけていた(※私の人生最大の暗黒期である。旧友に会った時に相談したら「そらゆめは一人で生きていけるからパートナー必要なさそうだよね」という誤解にまみれた言葉をもらって、ヤバイな、と思った)……その上、加害者として扱われることで回り回って自分が傷つくのを恐れるあまり何もしないという、最悪の被害者意識のかたまりにもなっていた。

ワートリのおかげというと恩着せがましいかもしれないけど、遊真のおかげでなんだかんだ自分の在りたい人間関係が明確になってきていると思う。ついでに我ながら面倒な躁鬱クソオタクだとも思う。 

 

で、これが大事なんだけど、私は「遊真になりたい」わけではなく、「遊真を好きなオタクである自分から逃げたくない」=「遊真を好きな自分のオタク人生に責任を取りたい」んです。だからネットでも同人誌でも好きなものを発信したいな~~~!という気持ちになっているし、それに伴うことには向き合いたいんだと思う。原作を好きだと感じた自分ごと好きなものに乗せる、それを好きだと伝える、というのが、私が目指すオタク人生の根本的なところだから、そこが揺らがないようにしたい。困難だな〜〜……でもそのためにも発信し続けたいな、という思いがある。私のオタク人生は好きなものを別の形にして共有したいという気持ちと、自分に責任を取ることで得る生き様で成り立つのかもしれない。

なので自分の好きなものについての言葉すら「完璧に誰にも読まれなくていいや」と感じるものになったら、裏アカを必要としないように、そのへんの紙にメモして終われるのかもしれない。ただ、私はいまだに「オタク関連の好意を共有することへの関心そのもの」をなくしたことがないのでどうなるのかな~と思う。もしその時が来たら、私のオタク人生に責任をもって終われたらいいなとぼんやり思う。

 

そんなこんなでいまの考えに至って、いろいろ発信するところを整えている。あれこれ整理しているうちに必要性を感じてとうとうサイトに好きなもの詳細のページまで作ってしまった。好きなものを好きという度に目に見えない誰かを傷つけていると思って嫌な気持ちを伴っていた数年前の自分が見たら、まったく呆れる有り様だろう。このブログ(※好きなものを好きというためのリハビリではじめた)の成果も出てるのかもしれない。サイトがいちばんフラットの気持ちの媒体だとすると、いまのところ「本音← このブログ>サイト>ツイッター>プレイ記録 →気安さ」くらいの気持ちでやっている気がする。

 

誰かに理解されるくらい伝わっていると思えるほど自分は言葉も表現もうまくないけど、今回なかなか楽しく記事を書けたように思います。

最終的に言いたいことが言えてるのかもよくわからないけど、これは他人には何のためにもならない、けれど私自身のためになる記事で、これを読んでくれたかもしれない人のうちの、更にほんの一握りの人の心の中の「ちょっぴり」になったら、その「ちょっぴり」への責任は、私が取ります。私のために。