かにみそさそり座

のーみそこねこね おうし座です

空閑遊真という美しい存在

久しぶりに書きます。リハビリ!

 

私は遊真が大好きです。正直自分でも引くくらい好きです。
ワートリにハマった理由のひとつでもあり、とても大きな割合を占めています。「ワートリで一番好きなキャラクターは?」ときかれたら彼を挙げます。みんな好きだけど、一番好きなのは遊真です。揺るぎなく。ワールドトリガーを人にオススメする時に、真っ先に語ってしまうのが「遊真が美しい」ということで、何かにつけ彼の魂を美しいと言ってしまうし、彼の生きざまを見るたび感謝の言葉が浮かぶ類の人間です。推し
クソオタクなので遊真について考えるのが大好きです。でも遊真の魅力は複雑でなかなかまとめきれず、遊真を好きな理由をつらつらとツイッターやサイトや絵、同人誌などで呟くように語っています。
常に「かわいいしかっこいいし魂もつよいし最高に美しい存在~~~!」というテンションで空閑遊真を見ています。
今回もつらつらと、遊真の好きなところを書きたいと思います。
ちなみに例に漏れず「空閑遊真」を書くためにいろんなキャラや事柄について書くし、全部ワールドトリガーの個人的な感想です。

 

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まず、遊真、第1話からいるんですよね。すごすぎる。
いや主人公のひとりだしふつうじゃん?て全然思えない……迅さんが1話1頁め・冒頭にいるのもつよくて好きなんですけど、チカちゃんも主人公で、彼女はとっても重要なのに2巻まで出てこない(1話トビラは別として)し、1話ってタイトル「三雲修」なんですよね。で、タイトルである修を「そうか オサムか」とニッと笑って認識するのは、空閑遊真なんですよね。

この時、冒頭に出てきた迅さんと重ねながらも、迅さんはいまだに修を「メガネくん」と呼ぶことから、空閑遊真っていまの三雲修を認識する重要な役割を担っていて、その役割は一貫して遊真が担っている。遊真自身がいまを生きている。いまを生きる彼を、読者である私が空閑遊真であると認識する構造がすごい。私は病院屋上信者です。


1話1頁め・つまり10巻第82話の夢での回想シーン・修と出会うのが迅さんで、彼も主人公のひとりですが、あのシーンは「例のペンチ」のすぐ後であることが私はめちゃくちゃ好きです。というのも、あの時ペンチを握った回想シーンの修は、麟児さんと一緒に近界にも行けず・チカちゃんが泣くのをはじめて見てしまい・トリオンという「才能」がないため正攻法でボーダーに入れず・トリガーを持たない/持てない、「三雲修」という弱い彼自身の在り方から唯一逃げたシーンだと思うからです。警戒区域に忍び込み、偉い人に直談判すればもしかしたら……なんて希望的観測で、真正面から自分自身で世界と対峙しなかった。
まず三雲修って3巻第21話で自分で語ったように、困ってる人を見過ごせない性質なわけではない。まったくそんないいもんではない。チカちゃんは近界民から一人で逃げまわってたいへん困っていた、だから麟児と一緒に近界に行きたい・行くべきだと思ったのにも関わらず、麟児に「本当に死ぬぞ」と言われて覚悟が決まらなかった、つまり弱いから自分が「そうするべき」と思ったことから逃げた彼が、泣いたチカちゃんを見て入隊試験を受けたけれど、才能で判断される世界だから落ちてしまい、それでもそんな才能のない自分自身にまっとうに向き合わず、本当に世界と戦わなきゃいけない時にトリガーではなくペンチを握った。現実から逃げて、信号機も動いていない警戒区域でバムスターに襲われ、迅さんに助けられるシーン。そのあとどうなったかまだわからないけれど、だからこそ迅さんは修を「メガネくん」と呼ぶんだな~と現時点では思うからです。今後どうなるかとっても楽しみなところのひとつ。

 

そしてだからこそ、第1話「三雲修」で修と出会う空閑遊真、とてもきれいな存在なんですよね。
遊真は修とはじめて出会う「学校」より先に「基地」を見に行っています。あの修の回想シーンでも「基地まで来てしまった……」と強調されていて、そこで修は「なんとか基地に入り込んで」と、才能で区分される理不尽な世界から逃げるような方法を取ったけれど、1話の遊真は遅刻してしまうけどそのあとふつうに学校に向かうんですよね。
私は同人誌のあとがきに「自分のあるべき場所を知ろうとする遊真が好き」みたいなことを書いたことがあるのですが、この「自分のあるべき場所」をテーマにきちんと動いていく遊真が私はとっても好きです!!!
父を近界で亡くし、父の言葉に従ってこちらの世界にやってきて、父を元に戻そうとする。1話の遊真には「自分がどうなりたいか」という思想がない。車に撥ねられても自分は大丈夫だから相手の車を心配するし、いちおう書類つくられなきゃだから名前も住所も答えるし、みんなが制服を着ているから自分も制服を着るし、校則で決まっているから指輪をしている自分が学校をあきらめようとする。遊真は自分の考えではなくて、その世界の理に則って動こうとするんですよね。

 

でも修は違う。「事情があるから世界が合わせろ」と発言する。修は「自分」という思想が強烈。自我がつよすぎる。だからこそ、遊真はだんだんと修の思想に触れていき、彼に興味を抱くわけで、それが私はとてもきれいだなと思う。遊真にとって修との出会いは純粋な自我の芽生えなんですよね。

5巻第43話でボーダーに所属した自分のことをサラッと「おれは近界民だから」という遊真がいて、14巻第120話でヒュースを四人目にするかどうかで「近界民だし難しいよな」と告げる姿に「空閑だって近界民だろ」という修。このセリフ、最初読んだ時ものすごくこわかった。修にとって近界民という遊真の一面は、玉狛支部にある近界民だろうとみんな仲良し~という思想ではなく、侵略者でもあるヒュースの一面と定義の上では一緒であるかのような描かれ方がされていると感じて……でも、修の世界の切り取り方は、世界の理が先にあってそれに自分が合わせる遊真のような考え方ではなく、常に「自分がどうなりたいか」が先に来るんですよね。だからヒュースが帰りたがっているという情報も絡めて、あのシーンなんだろうな、と思いました。

大規模侵攻後も遊真が玉狛第二として修とチカちゃんを手伝う姿勢を崩さないのも、遊真の動き方が、ウソを見抜くSEで世界の大枠を見極めてそこから外れずに行動するからこそで、そういうもんなんだろうな~~とぼんやり思っています。

 

「やり返さなきゃやられっぱなしなのがあたりまえ」の世界を、遊真は知っている。目には目歯には歯の理にかなった世界を見てきた彼は、弱いのに誰かのぶんまで肩代わりしようと首を突っ込んでくる修の考えがまったくわからない。誰かのぶんまで責任を取らないのは当然の世界で、自分以上の責任を負うことはない世界で、自分の力を見極めず勝手に戦闘に出たから、つよい黒トリガーによって殺されたはずだったかつての遊真。白い髪の遊真は、父によって自分の存在そのものが肩代わりされてしまった存在なんですね……

そんな遊真が、弱いのにチカちゃんのぶんを一緒に背負うつもりの修を手伝う。生きる目的がなかった遊真は、自分で、与えられた選択から、その在り方を選ぶ。遊真はつよい。

 

そんな遊真の生存を願うレプリカは、遊真が選択すべきことについて「それを決めるのは私ではない ユーマ自身だ」とよく告げますね。1話「周囲に気を配ったほうがいい、生身なら」→「事故ったのは急がせたから」→「その理由は遊真が作った」、5巻第43話「断ってよかったのか?」→「本気で近界民と戦うんなら 使うのはボーダーのトリガーじゃない 親父の黒トリガーだ」→「本部が黙っていない」→「迷ったら負けだ やばいと思ったら使うぞ おれは」など、遊真の身の回りの環境がどうしていまこういう状況なのかを遊真に問い続ける役割がレプリカだな~と思っていて、遊真の現在について遊真自身が確認する機会にレプリカが隣にいる。

遊真とレプリカの会話って本当に素敵で、彼らがお互いの意見によって世界にある自分を知ることが大半なんですよね。すごくきれいな関係で、私はふたりのそういうところがとても好きです。

 

9巻第78話で修の隣にいるレプリカは既に切られているけれど、遊真の隣にいる豆レプリカは「技術とか経験とかとはちがうとこ」でヴィザ翁に勝負をかける遊真に、おなじみの言葉を送ります。「いま」生きている自分の在り方から逃げずに「ユーマ自身」で、ヴィザ翁に「真っ正直すぎ」と思われるほど真っ正直な「一本道」に、換装を解いて、自分の生身すらトリオン体であること勝利します。

第76話で遊真は「オサムとチカは?」とレプリカにきいて、レプリカは「めずらしくつまんないウソ」をつく。遊真がヴィザ翁より弱いからこそ、遊真自身の生存だけに集中してほしいレプリカらしい嘘。

けれど、逃げない覚悟を決めた遊真は、修とチカちゃんの生存の責任もひっくるめた遊真のまま、ヴィザ翁に勝つ。いまの遊真はつよいから、自分の戦いのあと、修のもとへ行く。1話の、「基地」のあとの「学校」のように、服を変えて。

そしてその時、レプリカは修の隣で修が勝つ提案をしていて、修はそれをチカちゃんを守るために、「死ぬぞ」と言われて麟児と行けなかったあの時とは違うトリガー起動した換装体の姿で、「覚悟は決まった」と言い放つ。そうして、換装を解き、弱い生身で辛くも勝つ。けれど生身の修は弱いから、レプリカはむこうへ行ってしまう。

ここが未来の分岐点。

第4話「オサム死ぬぞ?」という遊真のセリフ、麟児の「死ぬぞ」にもかかってくるのですが、修はこの時すぐに覚悟が出来ない。だから第5話で修の訓練トリガーを使って遊真がモールモッドを倒したあと、レプリカは修としゃべるんだろうな~と思ってます。遊真に対して「トリガーは絶対使うな」と釘を刺す修とレプリカの姿が、生きる目的を得たからこそ無断で黒トリを使った大規模侵攻の遊真にもつながるし、トリオン能力という枠組みの中で、死と覚悟によって同調する。

私、9巻が死ぬほど好きで、何度も眺めてしまうのですが、空閑遊真が空閑遊真であることから逃げない、誰かのぶんまで肩代わりしている姿は修から影響を受けているけれど、レプリカはそのとばっちりの部分なんですよね……その上、12巻第101話でわかるように、遊真にとってのレプリカは、「いま」を構成するために過ぎ去っていった過去の事象を語らう相棒なんですよね……

で、そこには当然、いまを生きている修が絡んでくる。遊真がいま生きている姿は、必然的に遊真が選択した「生きる目的」の道に沿って動くから、レプリカはその目的に組み込まれてしまう。

 

それでも、10巻第83話、私の一番好きな回、病院屋上のように、遊真はニッと笑うんですよね。1話で「そうか オサムか」といったあの笑顔で。弱いくせになんでもかんでも抱え込もうとするあの修が、遊真の笑顔を通して、自身の弱さを痛感する。責任を取れないのにあやまろうとする修に、「オサムがあやまることじゃない」と言う。遊真は修のこともチカちゃんのこともレプリカのことも抱え込んで「おれがレプリカに言ったんだ」と自分のことにしてしまう。「さすがおれの相棒だ」とレプリカをほめる。泣く以外に出来ることあるか?修も泣くし私も泣く。修の生き方を遊真が映している。けれど遊真はつよいので、「事情があるからって世界に合わせてもらうつもりはない」んですよね。世界のルールに則って、けれどそれを自分の選択だと認識して、生きる目的に組み込んでしまう。第83話はタイトル「空閑遊真10」です。

本当に空閑遊真は美しい。

遊真の美しい魂が死ぬほど好きです。

 

ヴィザ翁戦の遊真が選び取る自分自身であることから逃げない道は、修と出会ってこっちの世界のみんなが自分自身であることから逃げずに誰かと生きる姿を知ったからで、遊真がこっちに来たからこそっていうのもとても好きです……それは同時に、「自分がどうなりたいか」という思想がなかった遊真が黒トリ遊真であることからも逃げずに、この世界を自分で見極め、この世界で生きる目的を持ったことに繋がるし、1話はもちろん2巻の旧弓手町駅での三輪隊との戦闘と比較してもかなり変化したなと思います。

弓手町駅では三輪隊から逃げずに近界民としての自分を名乗り出て、修もチカも巻き込まない戦い方をしているんですよね。
それは黒トリの近界民である自分のみの在り方の責任を取る戦い方で、もうこの駅にやって来ない電車に例えられるように、黒トリ遊真がこっちの世界の人々と共に存在する居場所を得ていなかったからだし、迅さんと一緒に、現在も使われている降りてくる踏切を越えて、近界民である遊真も電車に乗せてくれる玉狛に誘われて、そこで過去からいまの自分の在り方を語り、修に生きる目的を示されることでこっちの世界の居場所を得る。
ボーダー玉狛支部という最寄駅を得た遊真は、修とチカちゃんと一緒のボーダートリガーという切符で電車に乗って向こうへ行くことが可能になり、一緒に行く約束をして……そういう流れるような道が、きれいに用意されているのが好きです。

 

一本道を生きているくせにその道が修に与えられた道だからこそとにかく真っすぐで、でもだからこそ道を持たなかった遊真自身が変化して生きる姿が眩しい。17巻第143話で葉子ちゃんにあやまる華さんと華さんのために変わることができない葉子ちゃんにとって、自分のぶん以上の責任を「あやまることじゃない」と伝えて互いに影響し合って一本道の中で変わり続けている修と遊真の姿がムカつくの、死ぬほどわかるんですよね……かなしいくらいに才能のないやつを迎合しない世界の区分が変わらないので、その中でどれだけ自分ルールで進んでいくかって、ペンチを持つ狂ったやつを隣に置いておくしかない。遊真は自分の世界の理を修に傾かせつつあるからこそ、いまの遊真のまま生きていけるんだなと思います。

自分のまま誰かと生きるさま、美しいです。

遊真はいろんな姿に変わるけれど、魂が一貫して美しい。

 

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また、いまの遊真が肉体を持たないこと・トリオン体というかりそめの器しか持たないことがとても好きです。
‪‪自分の選択によって死と対峙し、他人である父の力によっていまを生きる彼が、父の力の副作用である他者の価値観に基づく嘘を見抜く能力を継いでいるからこそ、自身ではなく他者を通して世界を選択する術を持つのが美しいです。トリオン体とSEによって、二重の他者を通していまの世界を生きている彼が「空閑遊真」であること、つよい‬……

‪いまの遊真の器は本質的に有吾であるということ、倒錯的で美しい……けれど本質的に有吾であることすら「空閑遊真」という存在を構成するものになっていて、その最たるものがヴィザ翁戦の遊真の逃げないという選択で……

殻を脱ぎ捨てるように勝つんだけど、気迫の中身もまた有吾のトリオンで作られた身体で、生身も他者のものっていう何が本当なのかわからない姿そのものが「空閑遊真」なんだな~~と感じられてすごい。指輪の中に死にかけの生身がある、けれどいまこの世界にあるのは、その指輪によって生きている白い髪の遊真である。

近界とかトリオン体というSF設定がそもそもマトリョーシカみたいに多層構造なんだけど、こうした根幹的な生命の基盤そのものを揺るがす設定を一身に背負う遊真はそれらが具現化されたキャラクターで、あまりにきれい‬。


ヴィザ翁戦での修とチカちゃんの危機から逃げるわけにはいかない遊真。かつての姿である黒トリだけでは勝てない相手に勝つ時の彼は、制服姿なんだ……どこかに所属する証の姿、1話の出会いの姿なんだ……
レプリカが向こうへ行ってしまった以上この線路から逃れられないから黒トリではなく黒いパーカー姿で屋上にいて、新たな隊服に身を包み、青い空の、行っていいよという信号機の色をして、玉狛第二のみんなで遠征部隊を目指しているんだ……美しいな〜〜本当に……‬

まぁそういう文脈とか抜きにしても、黒トリガー姿のフォルムがいちばん好きです。すっっっげ~~~~~かわいい!!!ひとめぼれでした!!!

玉狛第二の隊服もフォルムがかわいくて好きなんですよね。手がいい。手がかわいい。ゴチャゴチャうるせぇ!てくらい遊真の魂が美しい話してるけど、ふつうにデザインも最高なんですよね。にわとり~!色も最高!天才的にかわいいよね?見るたびかわいすぎてびっくりする。

推しが素晴らしく美しくキュートでよかった~~!!!世界、アリガト~~!!!

 

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つらつら書いていると何が言いたいかわからなくなるし、ワールドトリガーはAとBが繋がる、AとCが繋がる、BとCも繋がる、というような点がめっっっちゃくちゃ多いので、うまくまとめきれません。いいたいこといっぱいある。

なんか文字だけかなしいので以前描いたのもつけました。遊真いっぱい描いてる……好きだ……

とにかく空閑遊真は美しい存在であるという話でした。この話まだまだ何度でも出来る。

空閑遊真は語りつくせない。大好きです。

自分の同人誌と二次創作

文が書けない危機感がヤバめなので、今回はなぜ私がいま二次創作しているのかと自分の同人誌について書きます。
ワートリの感想ではないです。ワートリのことが好きだという話ではある。
リハビリ自分語り。そのためのブログ!
人生が狂った話です。
 
 
 
私はいちクソオタクソフジョシとしていまワートリの二次創作をしていて、いまのところ四冊同人誌を出しました。6月にもう一冊増えるかもしれないけどこれは本当に微妙です(こんなことしてるので)
はじめて出した同人誌は当奈良です。去年の四月。夏に遊真の本を二冊、2月に当奈良を一冊作りました(プチオンリー最高でした……何度も噛み締めてます……本当にありがとうございました……!)
お手に取っていただいた方、ありがとうございます!
 
いまのところは当奈良か遊真の本しか出していません。描きたいこといっぱいあって描ききれないのでその時好きだなと思ったところを描いています。いま原稿中で、近界民の話なんですけど、これもガロプラの話がちょっとひと段落したいま好きなところを私の好きな理由で描きたいから描いてます。
なぜ本にしているのかというと私の好きなところを本の形にすると私がとても幸せだと感じているからです。今回はそういう話をします。
 
人生の半分以上オタクをやっているのですがはじめて出した本が「ワートリの当奈良」という事実が、私的には実はとても大きな意味を持ちます。時期や金銭的理由からハマっても本は出せなかったというのもありますが、出さなかったという側面もあります。
私は長年好きな作品への解釈を本のような形あるものに固めるのが「苦手」だと思っていたから。
 
 
 
長々と自分語りをします。
これまで私は二次創作の自由度の高いジャンルで二次創作を楽しんでいるオタクでした。私の二次創作の礎は「テンミリオン」という今年14周年を迎えるブラウザゲームでずっと、いまもゾッコンで、このゲームのすごいところは「公式設定がほとんどない」というところです。信じられないほど二次創作の自由度が高く、ご本家が二次創作を許容しております。ご本家には交流掲示板の他に小説掲示板とイラスト掲示板が存在し、プレイヤーは各々自由に自分の「テンミリオン」を投稿することが出来ます。
幼い頃からストーリーやキャラの性格や世界観設定などを数多作り上げキャラクターの掛け合わせや性転換だって無限に楽しみましたし(そもそも性別が明確には設定されていません、性別という概念自体からプレイヤーが世界観を構築出来ます)現代モノだろうが学園モノだろうがなんだって書きました(おそらく魔法や剣のファンタジーな世界観のゲームなのでしょうがそれすら「公式設定」と言及されていないため魔法や剣がどういったものかを自身で解釈出来ます)じゆうちょうを何十冊と使い果たし、毎日小説を書き、絵を練習しました。ある意味で私の創作の原点ともいえる作品です。
テンミリオンにおいて「解釈違い」に対する嫌悪感は、少なくとも私にはありません。テンミリオンのユーザーはそれぞれの二次創作を発表し、オープンコミュニティでありながら体感的にクローズドコミュニティであるご本家でそれぞれの創作性を楽しんでいました。私がはじめて個人サイトを作ったのもテンミリオンでした。
そんな中とある解釈でのとあるふたりにどハマりして、その解釈でのふたりをCPとして愛でまくるようになりました。ブロント×闇の精。
 
「彼らは半神であり、互いの半身だ。彼らを取り巻く世界では片方は神性を持ち、片方は人間的だ。器のみを殺される方は右で、相手を殺すことで自身の存在が死ぬ方は左だ」
 
と考えました。
これは私が私の思想から抽出した好みの成分のうちのひとつで、あらゆる好きな作品の好きなところを突き詰めた時、テンミリオンの少ない「公式」設定(「プレイヤー軍のリーダーはブロント」「クリア条件は闇の精を倒すこと」など)に合致すると解釈したからです。
それからは思想をシステムに反映させることでテンミリオンの二次創作を楽しむようになりました。他にもポケモンリヴリーにハマり、ゲームジャンルという側面からか、思想をシステムに反映させることで比較的自由度の高い二次創作を楽しむことが出来ました。私がメタフィクション的な創作観を好むのもここに起因しているように思います。
記事の主旨のため言及しませんが、テンミリオンもポケモンリヴリーもいまも大好きです!ずっと好きです。
 
こうした二次創作が否定されないところは「公式」の文脈が極端に少ないからこそ、なジャンルの特質も理解していました。当時別媒体の作品にハマってインターネットで個人サイトを巡っては「理解出来ない」二次創作に直面したことは数知れず……しかしその作品の「公式」という原作への解釈が違う・読み解き方が違うのは当然です。私はますます自分の好きな読み方のみを閉鎖的にすることを拗らせます。個人サイトの人間なのです。
私は当時好きなCPに対しかなりヤバめのクソオタクソフジョシの自覚がありませんでした。たとえばテニスなら真幸でバスケなら高緑で緑赤でチャリなら石御で東巻で真東を推していたのですが(今はだんだん好みのところがシフトしたのでそもそも読み方が変わり、これらのCP過激派ではないです!)いろいろと他にもあらゆる構造にもえてCP観をいっぱい発見して……いっぱい……星の数ほどハマりにハマり……あらゆるもえに貪欲になり……多様化し……よりクソオタを拗らせました。
 
それからは好きな作品の二次創作にあまり積極的に触れずにいました。原作という「公式」があるため、自分の解釈と大幅に異なる解釈をする二次創作を見るとそれに感化されて、自分の考えていたあらゆるもえは原作の何に・どこに合致するのか、何が好きなのかを考え、作品の持つ思想と自分の思想とを掛け合わせて好きなところを捏造しているのではないか?と思い始めてしまうからです。そもそも作品の持つ思想とは何だ?正しさとは何だ?「公式」のみが正しいのか?こんなことを考えることは間違いかもしれない、こんなことを考える時点で私には作品への愛がないのでは?
私はバカです。
自分の二次創作観に縛られ自分が絶対的に正しいという意識を持つことに根本から恐れがありました。自分の好きな面があり思想信条もある人間なのに、それに反する面の可能性に直面した時、殺意と向き合わなかった。
 
そもそも、いろんな読み方がしたいのに、まず自分の読み方をきちんと形にして持っている意識がなかったのです。
 
二次創作の自由さは不自由を内包していて作品そのものを読んで純粋に楽しむということが困難になってきていました。
当時手書きブログやpixivでの二次創作界隈が賑わいを見せ始めSNSが二次創作の荒波に飲まれていく頃で、個人サイトの頃より他人の二次創作を簡単に拝見できるようになったこともあり、二次創作そのものに鬱々としていきました。私は週末しかネット環境のないこともあり、どんどん鬱々として、自分でも知らないうちにますます自分の解釈に没頭します。今思えばなんてバカなのだろうと思います。
この「無意識のうちに確立した解釈を固定して持っている」という状態。これに私はとにかく吐き気がしていました。解釈を固定する自分にすさまじい自己嫌悪を抱いていました。自分が二次創作に没頭すればするほど、作品への愛情に正しさを求めていき、その反面、二次創作への熱意をどんどん失っていました。
今思えば、なんて、バカなのだろう、と思います!
 
しかしバカなので、身の内のみで燃え盛る作品への愛憎ととっくに消え去っていた二次創作への熱意の区別が出来ず「そろそろ二次創作をやめよう、ただのオタクに戻ろう」と薄々思うようになりました。疲れていました。クソオタ拗らせすぎていた。サイトを縮小して、昔の絵をゴミ箱へ投げ込み、SNSの作品を全消しして……もう何かに熱を上げることもないだろうな〜自分の人生の中で二次創作はそろそろ潮時だな〜とぼんやり考えていた頃、
 
ワートリに出会いました。
 
元々私が好きだった二次創作は、対象の作品をファンがそれぞれ自分自身の解釈で楽しむということです。考え、解釈するということそのものが「楽しい」ということが好きでした。「正しさ」の強要されない自由度の高い世界。
ワートリの淡々とした作風と世界とキャラクターの関係。キャラクターが物語のためのシステムとして消費されないけれど、物語が世界のためのシステムとして機能しているところ。とてもサイコー!言葉がうまく扱えないけれど、整然とした煩雑な作品だと感じました。
私は前述してきたように、システムに思想を反映させることが二次創作をする上でとても好きです!たとえばトリガーチップを選別するキャラクターたちのカスタマイズという思想の形。ゲーム的です。システムに思想を反映させていくキャラクター、という面を持つ作品を、読者である自分が自らの思想を反映させて読み解くこと。メタフィクション的です。好みの読み方が自然と出来る!
 
何よりそれが「正しさ」で断罪されない!
 
私はとても胸が熱くなりました。ワクワクしました。以前も書きましたが、想像することを否定されないことがとても嬉しかったです。もちろん作品そのものがとてもおもしろいんですが、というかそっちがワートリを好きな理由のメインなのですが、自分がクソオタ人生のがけっぷち瀬戸際であったこと、読まずにクソオタをやめていたかもしれないことを考えると胸が詰まります。読んでみようかな、と思った自分のことがいまはすごく好きです。かつてバカみたいに正しさや愛情を資本にしていたのも含めて、いまバカみたいに作品を読むのを楽しめていることが幸せです。たぶんワートリじゃなくてもハマれたのかもしれない。でもワートリでした。私にはワートリでした。
だから私は、ワートリに人生狂わされました、といつも思ってます。
 
いつの間にかいっぱいらくがきをしていて、だんだんワートリで二次創作を楽しみはじめて、ファンがそれぞれ作品に対して自分の頭で考え真摯に向き合っている空気に触れ、自分もウキウキとネットに絵をあげるようになり、2014年秋、とうとうワートリのオンリーイベントに行きました。イベント一般参加、とんでもなく久しぶりでした。
私はイベントでは本をたくさん買ってたくさん読みます。自分にはない視点を感じられるからで、毎度言及してきましたがそれがとても楽しいのです……読めば読むほど、私も自分の視点での二次創作がしてみたい、そして数々の素晴らしい本のように、私も自分の頭でワートリを好きな証として本が作れたらいいな、とむくむく思いはじめ、2015年4月、ついにワートリで自分の本を出し、人生初サークル参加をしました。
 
私は二次創作をする時に「捏造注意」という言葉をあんまり使わないようにしています。読む人にとって二次創作は全部捏造だからです。このへんに「公式」への感情を捨て切れていないのですが、それでも、二次創作では、自分の読み解き方をして、解釈への明確な意思を持って描いています。というかそうありたいと思っています。曖昧な言葉を使うのはせっかく二次創作してるのにそれらの肉付けを削いでいて、よくないなと思っています、いまは。
ずっと殺意を隠していました。愛ばっかり詰め込んで二次創作をしていました。いまもおおっぴらに「殺意と愛を持って描きました」というのがすごく苦手です。でもなんとなく、ワートリを読んでから、そうした思想を変に隠さずにいようと思いました。バカな感情をいっぱい抱えてきたので、隠そうとしても歪だし、どうせなら形にして、自分の二次創作はすごく歪だけど自分で愛でてあげよう、と思うようになりました。メタフィクション好きの私には、みんながみんな自分の頭で考える生き方をするワートリの、キャラクターだけでなく読者である私自身もそれを許されているように感じられるところが大好きです。いまはひたすら自分が楽しくなるために二次創作をしています。
スタンスとして、殺意と愛を持って二次創作をしています。
 
 
 
長い自分語りをしました。すみません。
自分語り楽しいですね。そういえばこのへんのことを語ったことがなかったなといま気づきました。
いつも同人誌のあとがきに書いている、「ワートリに人生狂わされました」という言葉、全く冗談じゃなかったんですが、その文脈を述べたことがなかった。私が勝手に狂っただけなので、なんだか責任転嫁してるようですが、違わず真実です。
ワートリに人生狂わされました。
 
 
 
当奈良がいかに素晴らしいか。
当奈良は互いの半身で、狙撃手界の半神です。(関係ないけど穂刈のセリフ大好きです、チカちゃんという新しい波が来たのすごく楽しい!縛られない自由な才能ともど真ん中ロボット狙撃ともその他の狙撃手とも差別化される、火力モンスター!)
私は、右の方がより概念としての神に近い存在であり左は人間だ、器が殺される方は右で相手を殺すことで自身の中身が死ぬ方は左だ、というひとつのCP観を、何年も、本当に何年も構築しているクソオタクソフジョシです。
そして彼らが別の生き物でありながらそれぞれがそれぞれの在り方で世界で息をしていて、それがとてつもなく美しいことを心底愛しています。同じ狙撃手なのに別の在り方なのが美しくて好き。
なので、私の読み方だと当奈良だろうなと感じてます。
ちなみに「別CPが嫌いだという話」と「描く対象が固定CPだという話」は私においては全然別です。奈良当が読めないという話ではまったくない。当真の他CPや奈良坂の他CPを受け付けないという話と私の読み方が当奈良である話はまったく関係がない。たぶんある面で解釈したら私の当奈良は冬当だし奈良三輪なんだということもわかっています……だって原作読むと「うわ~~~ここすごい構造がもえる!!!」てなるキャラクター多すぎる!ワートリ楽しすぎる!……バカ……好きです!
私はこのふたりの関係を長年のクソオタクソフジョシとしての思想信条と一致したため「描くCP」は当奈良に固定したまでです。
なぜ当奈良か。
彼らが、別々の生き方をしていながら、決して互いを否定しないからです。「俺らにかかりゃ楽勝」「当然」それはかつて二次創作に鬱々としていた私が、何よりも求めていた、理想的な他者との在り方だったからです。信じられないほど美しい歪さ。
だから私の人生ではじめての同人誌は「ワートリの当奈良」です。
 
私は当真と奈良坂に、前述した私の好きなCP観をほのかに感じ、ほのかなにおいを悪臭にするのがたまらなく楽しいんだよな、と思って、二次創作をやめようとしていたバカな自分への思想信条の表明のためにも、同人誌という形あるものを作ろうと思いました。「苦手」だと思っていた形ある解釈の塊を。
私のための武器として。
当奈良が大好きだから!当奈良が!!!大好きです!!!!!涙が出るほど!!!
 
 
 
自分の本の話をします。
 
はじめて出した本「犬と猟銃」を描いた時、私はふたりのことを私なりのCP観にどうして固定できたのか考えました。
当真さんについて、外れる弾は撃たない主義であり警戒区域を平らにすることを過激だと言及するところに、この人は理想を抱きながら戦場に立つことのできる、ロマンによって敵を殺し己の精神を殺されてゆく人だと思い、更に冬島さんの部下であり、隊長の能力を信頼して罠を使うことのできる隊員であり、現実を理解しながら戦場において理想的な優位性のある在り方を考えて行動する人の子だ、リアリストだ、神の力を手にしながら魂は神ではない、その上NO2の奈良坂に対して「だからお前はダメ」と伝えることでNO1である自分の優位性を表す半身を殺す子だ、だから左だ!と思いました。
奈良坂について、三輪と米屋がうまく近界民を殺せるよう動きを制御するための狙撃を行えるところ、戦場において戦力を整えるための助力として狙撃を行えるところに、この子は能力を把握して動く子でありながら自身の能力を信頼しているから外して舌打ちをすることができる、ロマンチストだ、しかし一度己の家という器をより優位な近界民という存在によって壊されることでボーダー隊員としての魂を新たに吹き込まれた子だ、抜け殻に空虚な精神のみを宿す、器は人間なのに魂が神に近い子なんだ、しかも当真さんの狙撃の腕前に人間であるボーダー隊員としての器を壊されているNO2の子だ、だから右だ!と思いました。
その上で、「ふたりは隊員である」ということに非常に好感がありました。個人でありながらチームに所属している隊員という点!
生きている人は多面体。私はそこがとても好きです。
だから本を描くなら、冬島さんの存在は絶対に削れないと思った。当真さんを形成する言葉としての「NO1狙撃手」は「A級2位冬島隊(戦闘員は二人しかいないうちの)狙撃手」の側面を持つし、やっぱり当真さんが「うちの隊長」て呼ぶ存在のことを描かないのは無理だった。冬島さんが好きです……!当時、狙撃手訓練の「自由な才能〜」のシーンまで出ていなかったため、奈良坂は、当真さんへ「あんたも撃ったらどうだ」と狙撃を促すシーンから「当然だ」のシーンまでに、当真さんの狙撃手としての在り方を理解する過程を踏んでいるはずだと妄想しました。(でも理解していたけれど物申した奈良坂の可能性も大好き……)
描きたいものがぼんやり決まり、ふたりがふたりをどう認識するかの話にしようと思いました。誰かによって形作られる関係と自分自身の居場所をどうやって理解したのか、を、当奈良はつよく妄想できると思ったので、「犬と猟銃」を描きました。ワートリの当奈良がいかに魅力的なのか、自分の読み方で、はじめての本であることを含めて、自分がワートリによって形作られていることを象徴する、自分を殴る本が作ってみたかった……殺意と愛を込めて!
うまれてはじめての同人誌。とても拙いけれど、とても楽しかった〜〜〜!
 
その後、もともと初読から遊真が好きで、「死んだ子が自分自身の葬式で喪主をしている」という器と魂の概念を愛していることもあり、自分の読み方での遊真の本を二冊描きました。自分のための本だ……相変わらず拙いですが、やっぱり気に入ってます。遊真がいかに素晴らしいかの話はいつでもしたい。いつもしている。いくらでも出来る……これはまた後日にします。たぶん。楽しかった〜〜〜!!!
 
そしてまた当奈良を描きました。プチがサイコーだった……本当に!すごかったんです!!!当奈良はサイコー……脱線しました。
原作が進むにつれ、ボーダーに存在する当奈良がいかに素晴らしいか、私はまた私の読み方をまとめなきゃいけない!描きたい!とつよく思って……描きました……描きたくてたまらなかった……
彼らが所属しているボーダーという組織、冬島隊と三輪隊という括り自体が、「私がワートリを読んで当奈良を当奈良として認識したこと」の証なんだと感じてます。はじめて作った「犬と猟銃」が当奈良の互いへの認識の話なので、彼らの在り方ぜんぶ含めて、当奈良を読者が認識する話にしたいと思いました。読者というか、私が。絶対に当奈良のことを一緒くたにして消化なんかしないぞ、という本なので、とても気に入ってます。サイコーに楽しかった〜〜〜!!!
 
いまは近界民の話を描いてます。いつになるか微妙ですが本にしたいと思ってます。また本になった時に、自分が「楽しかった」と思えたらいいなと原稿中です。
 
 
 
いつもうまく語れないけど、ワートリの二次創作、本にしてよかったといつも思ってます!自分の二次創作を塊として手にすること、すごく楽しいです。それを人様にも手に取っていただけることもすごく幸せです。殺意と愛を込めていますが、それが本になると、歪な湾曲さえ幸福のかたちをしている気持ちになれるので、とても楽しいです。正しさではなく、その時の楽しさを詰め込んでいくことが私にも出来るのだな、と感慨深いです。愛憎と熱意が渦巻いてるからね。楽しさや自由は縛られるものではないって当奈良が言ってたので(言ってない)変に囚われずに二次創作出来るのも幸せです。いろんな本があるから私のハズレ本をアタリだって言ってくれる方がいるかもしれないし……夢見てますけど……感想とても募集してますけど……「公式」として正しくなくても、私の頭の中では正しく楽しいものを描いているんだ……と思えるようになり、少しほっとしてます。誰もが別個の人間である話が優しくて好きで、バカなのでやっぱり楽しいです。
 
いろんな読み方がしたいのにまず自分の読み方をきちんと形にして持っている意識がなかったかつての私があって、いま、自分の好きなところを形にするためのブログや同人誌を書いていることがとても楽しいです。リハビリですけども……
私は賢くなれません。
二次創作がいまとても楽しいです。
長々、終わります。また無為に記事を書くぞ〜〜〜
 
 

アニメの修と遮断機の話

前回の続きを書こうと思っていたのですが、ちょうどニコニコ生放送でワートリのアニメ一挙放送がやっているそうなので、アニメのことを少しだけ。息抜き程度に自分なりの感想を。見直して書いてる記事ではないので、またしても記憶の中の感想です。

今回、読む人にとっては「作品への好意の表明」の記事ではないかもしれません……
「いろんな見方ができるんだな」て思えるからアニメも見てます、て話です。
 
誤解して欲しくないのですが、この記事の感想は、アニメをdisってるわけじゃないです!こき下ろすことなんてできない!保身とかじゃなくて、心から尊敬してます。こういう見方もできるんだな〜という点で、アニメのワールドトリガーの描かれ方はとても楽しいです。私にはない視点が多かったので!どうしてこういう見方ができるのかとか、いろんな感想を読みたい。だから、手始めに「私はこう思った」という記事を書きます。同じくらいどうしてこの話を受け入れられなかったのか、とかも書いてる。友達少ないから意見交換できない虚しさ……他人の視点から読んだら全然別の話になるんだろうな、というのが、やっぱりとても楽しくて好きです。私はただのクソオタなので解釈違いを楽しむのはとても好きなのですが、地雷解釈がなぜ地雷解釈なのかを考えることが、私にとっての地獄でとても楽しい!てことです。なので、ぜんぜん、ヘイトではない。ここはクソオタとしていちばん誤解されたくないところです。
 
 
 
アニメ ワールドトリガーは日曜朝6時半〜という放送枠ですが、用事のある日や寝坊した時、見るのがしんどい精神の朝は録画に頼りますが、基本的にリアルタイムで視聴してます。
 
この枠であるからか、作品の持つ特徴でもある、全体に漂うドライな雰囲気やシビアなところは少し緩和されています。かわりにほんわり漂う優しさや柔らかさが強調されていて、わかりやすいようキャラクターの台詞や振る舞いを変更しているところがあります。
私は、特に修に関して、原作での演出と異なる点が多く感じていました。(とりまるも自分の読み方と大幅に違くてびっくりしてましたが、こちらはうまくいえない……)アニメ一話で今でもよくわからないのは、修に助けられたクラスメイトが笑顔でありがとうっていうところなんだけど、ここのアニメの修は原作読んだ時の印象との乖離がかなり大きく思いました。修のための世界が原作より少しだけ甘いかんじ。良くない印象のある言葉だと、愛され主人公てかんじ。ここで、助けた側にすら戸惑われる、受け入れられないからこそ、後の、遊真がクラスメイトに受け入れられていく様との対比、ボーダー隊員として受け入れられて良心の呵責に苛まれる様との対比、嵐山隊や木虎の思想との対比が顕著だと思ってたので……ただ、この件に関しては、功績の所在に関しての遊真の台詞があること(「おれはオサムを助けただけで、生徒を助けたのはオサムの手柄、自分の手柄を人の手柄にカウントするのか?」みたいな台詞がモールモッド戦後に入る)ので、修というキャラクターが行ったこととしてわかりやすく記号的にまとめていたのだろうと思ってます。ただ、私は、修の持つある種恐ろしいまでの「自分の世界」を貫く様が、魅力として描かれているように思うので、やっぱり原作の含ませ方が好きです。三雲修がどういう人間なのか、という面では特に。
また、アニメ一年目最終話でもある第四十八話(完全アニメオリジナル脚本の回)にはとてもびっくりしました……アニメオリジナルが入るのは宿命だけど、本当にびっくりした。話の構成として「焦って落ち込むオサムが本来の在り方を見直して立ち直る」というのがニチアサ的な話の主軸だとしても、この時点で勝手に焦って立ち直るのは物語に対してだいぶ印象が異なると思ったので……キャラクター性というより、作品の構成として描いてきた世界や物語そのもの、土台から違うもののように思えて、びっくりしました。修ってあんなことで泣けるの!?てずっと思ってる。(病院屋上信者なので)修に憧れる一般市民が描かれていいの!?とも思ってる。(この子に関しては一話のいじめられっ子と同じ)この段階で修がああいう行動に出ることがわからなくて、リアタイ視聴しながら混乱してました。もちろんアニメ一年目最終話だからこうしてまとめた話であって、本編とは異なるものだということはわかっているのですが、基本的に玄界の世界が開けすぎているのがすごく気になってます。この感覚をいまだに噛み砕けないので、他の人の感想などをたくさん読みたいと思ってます。修が皆にかまわれているシーンとか、私には絶対に出来ない読み解き方や視点なので、特に。(みんな頭で考えることのできる人なのにあんな訓練に付き合うか?という気持ちを抱いてしまうので……)
私個人としては、いままでの記事で書いてきたように、世界がキャラクターを簡単に迎合しないところがすごく好きなので、少しだけ残念に思ってました。これはニチアサ枠だから、というわけではなく、漫画からアニメへと変えるときに、より具体的で記号的なわかりやすい世界になるのはしかたないことなんだけども、自分が感じていた魅力を削られているので、ちょっとだけね。
 
でも、アニメでわかりやすくしてくれている点を見ることで、自分の中ですごく考えの幅が広がることがいっっっぱいありました!
遊真の声がすごくすごくすごーーーく好きで、好きなキャラクターだから贔屓がすごいのもあるんですが、本当に毎回村中さんの演技に感謝しまくりです。日曜朝6時半に神に感謝して泣いてるてレベルで好き。好きなシーンの台詞が全部サイコーすぎて大好きです……遊真が遊真!てかんじ、もはや村中さんの遊真しか脳内再生出来なくなってしまった。声がつくってすごい。動きもかわいいからずるい。無条件で好き……て平伏してしまう。
 
あと、演出にはいろんなシーンで感動してました。私はバカなのでアニメによって気づかされる点が多すぎて、やべーーー!ここ、こういうかんじだったんだ!すごい!!!楽しい!!!て素直に思えました。
中でも特別印象に残っているのは、迅さんが遊真を玉狛に誘うシーン、踏切の遮断機です。私はここを原作で読んだ時、背景に描かれた踏切は「上がっていくもの」と読んでいました。バカなので、迅さんのセリフによって遊真の選択する道が開けていくんだな〜〜〜と単純に思っていたからです。お恥ずかしい……たぶんきちんと読み込んでる人にとってはここは降りてくる遮断機だってわかるかんじだったんでしょうね……お恥ずかしい……
アニメでは遮断機は「降りてくるもの」でした。音を立てて道を塞ぐもの。このシーンは、三輪隊との戦闘を旧弓手町駅で行った後のシーンです。アニメではこの戦闘の直前に「この駅に電車が来ることはない」ということを修に説明され、遊真が残念に思うシーンがあり、気持ち多めの尺を取られています。ここの演出がすごく好きでした。近界民によって失われたものの象徴として、人を乗せて三門市を離れる電車の存在があることをきちんと提示し、描写されていて、その上で「近界民によって失われた、損なわれた者たち」のいる三輪隊(これを言及するのは、「自身は損なわれていない」と思っている三輪隊の米屋)との戦闘が行われます。そしてその後、近界民である遊真がボーダー支部である玉狛に誘われる。その時に、人を乗せた電車が前を横切る、という点で、この遮断機の演出にとてつもなくハッとさせられたのを覚えています。遊真はこの後、自身の失われたものである父の存在を(そして誘った迅さんも失われた師匠の存在を)明かし、遊真は玉狛に入隊することを「ここは父の故郷だが自身の居場所ではない」と断り、現在の自分に至るまでの過去を語ります。遮断機で遮られたのは、遊真は玄界ではただの近界民であるという立ち位置をより際立たせていて、この演出はそれをとても助長させていて、すごく好きでした!また、人を乗せて三門市を離れる電車が彼らの前をこれから横切るのだという暗示的なシーンで、未来がここから動いていく雰囲気も持ち合わせていて、原作で特別意識せずに背景を読んでいたのをとにかく恥じました……アニメならではの音と動き!感動です。読み解くべきものしか描かれてていないんだな……すごい。
「音を立てて降りてくるもの」、道を閉ざしていくものとしての遮断機の話でしたが、ワートリのゲート発生の警報は「音を立てて降ってくるもの」として描かれていて、ゲートそのものは異世界から開いていくもの、というのもとても楽しいです。アニメオリジナルのシーンで好きなところは、警報を鳴らすシーンでボーダーの内部を見せたところ。見せてたよね!?ちょっと記憶が曖昧だ……すみません……なんか、薄暗い室内の沢村さんとかが出るカットが記憶にあるけど、違った気もする……でも、最初の方のアニメの演出によって、ボーダーが玄界と近界の境界でありながら視聴者は後々この視点から世界を読んでいくのだ、というのを際立たせていたように思ってました。
あとやっぱりごはんたべるシーンいっぱいあるの嬉しいです。ジャングルジムでハンバーガー食べるのすごく好きだった。チカちゃんのおにぎりとか玉狛のごはんとか、すごく好きです。
音と動きはやっぱりすごいですね!アニメの情報量もとても多いから、原作すら読み解けない私には処理しきれないのですが、原作の含ませたところを読む時に、私には気づけなかったところを気づかせてくれるきっかけになるところもあって……きちんと読んでいれば気づくんでしょうが、頭が悪いのでとても助かります。
 
地雷解釈で発狂することもありますが、なんでなのか、を考えさせてもらえるのがすごく好きなので、やっぱり楽しくていいな、と思います。クソオタなので自解釈固めるの好きだけど別にガチガチに固めてるわけじゃないから「へ〜〜〜」て思えるしやっぱりすごい。
 
私はファンとしてメディアミックスってすごく大変なんだろうなと思ってるのですが、ワートリの他視点多視点なところがより楽しめて、そういう意味でアニメも好きです!て話でした。原作が好きだからこそアニメもある面ではおもしろい、て話なんだけども……また無意味な話書いたけど私が楽しかったからいいや。かつて日曜にダラダラツイッターしてたことの中から記憶にあることをまとめただけの記事で、やっぱりあんまり好意の表明じゃないかも。でもちょっとだけど言いたいこと言えてスッキリしました。おわり。

与えられないレプリカと私のグダグダ


前回の話を引き続き。読んでくださった方ありがとうございました!
また思考の整理、自分のための記事、ただの感想のひとつです。たぶんこれからずっとそういう記事しか書けない。私はきちんとした文章を書けない。
そしてとても眠いので途中で終えます。



前回の記述を読み返して、どーーーしても訂正、というか削除したいところがあって、いっぱいあるんだけど、とりあえずひとつだけ。私は、迅さんの過去の領域について誠実に読んでいないです。適当な感想を書いてすみません。なんで書いたんだ……
ブログを書くために読み返す、という行程を踏んでいない(※マジヤバ終わりの見えない原稿中)ので結局きちんと読み込んでないですが、私は、「迅さんは三輪姉ではなく、現在の三輪の在り方を選び、さらに未来の修を選んでいる」ように読み取っていますが、解釈というより本当にただの「おぼろげな記憶の彼方の感想」を思い起こして書いているブログなので……思考の整理として機能したので良しとします。楽しいです!これが私の望んでいる私のための地獄だ……とサイコーに気持ちよくなってます!書いてよかった。



チカちゃんは過去→現在、迅さんは現在→未来、遊真は現在→現在へと変わっていく力を手にしていることに対する、修は「常に現在」、それに対するレプリカは「常に過去」の話。
この話をする上で、遊真と修の担うところの差異について、主体をどちらに置くかでかなり個人的に考えが割れます。今回は遊真を主体に置きます。なぜなら私は遊真担のクソオタだから……クソオタである私は凄まじいほどに強欲に、あらゆる可能性を、妄想を、萌えを、推しのために、掌中に収めたいのです……
この観点について私は答えを出せていませんし、あくまで今回は「遊真の選択によって修は遊真と出会った」「修は遊真に選択を与える側」だから、修が常に現在、というところを重視して、ダラダラグダグダします。ちなみに修と遊真の話ではなく、遊真とレプリカの話になります。なぜなら私は遊真とレプリカが好きだから……クソオタの業は深い。ネタバレありオチなし。

遊真は有吾さんと修によって現在を生きていて、遊真は有吾さんに与えられた現在から修に与えられた現在を生きています。このことについては前回書いたので割愛しますが、私は遊真のいってた「有吾さんと修の似ているところ」は「遊真にとっての現在を遊真に与えられる人物だから」だと思っています。このふたりが似ているという観点が遊真によって提示された文脈だから、そう思います。
修は「いざという時」すべきと思ったことをできない自分を知ってるから、「いま」すべきと思ったことを行います。持たざるメガネにとって、現在対面している問題に、選択する余地としての過去も未来もありません。現在の自分の力だけ。常に現在に留まります。この「修がいまを生きてる」っていうの、どのシーンでもそうだと勝手に思ってるから言葉にするのすごく難しいですね……例えばペンチのシーンでもそうなんですが、修はあの時「こうしなければ状況が変化しないと思ったから」ペンチを持ち出せたんだと思うのです。(その後のことは迅さんの領域なので私は葦原先生の手のひらの上で転がされたい……と思ってます)修について唯一「いざという時そうできない自分」を感じたのって、修が「チカちゃんが泣いてるのをはじめて見たシーン」ではないか、と現時点では思ってるのですが、「あの時麟児さんと一緒に行けなかった自分」のことだよね?と思ってるけど、修担でないので誠実に読み取っていない気がする……でもやっぱりそれ以外の場面で修は常に「いまその時」にあり続けているように思います。記者会見でいってたように、「やっぱりそうした」道を行くから、いま持つ力のみでそれを選択するから、結果として状況に変化が起こらない。なぜなら修は世界に迎合されないから。だからスパイダーの選択がとても熱かった!修が明確に世界に適合したシーンて感じました。人のための状況を与える、「与える側」の「やっぱりそうした」道なんだけど、でも、スパイダーの選択って世界が開けていく感覚があった。きちんと木虎の世界に頭を下げたからかなって思ってます。ちなみに、有吾さんが遊真のために黒トリガーを作ったのは、有吾さんがその時、「いま」、そうしなければならないと思ったからだ、と思ってます。

そして私は遊真とレプリカの関係に死ぬほどもえてるオタクなので、「レプリカは遊真にとって有吾さんではない」「レプリカは与える側ではない」というところがものすごーーーく好きです!私はレプリカ先生は「空閑有吾のレプリカ」ではないと思っています。遊真に現在を与えられないレプリカ先生は、有吾さんの完全な複製品ではないからです。けど同時に、偽物で、模造品なんだな、と強く思えたので、アニメのふたりの声優が一緒だったのは死ぬほど嬉しかったです!私は遊真とレプリカについてはかなり過激派の自覚があるので何度もいいますが、レプリカは「遊真に元に戻ってほしい」という願いを抱いている自律型トリオン兵で、遊真の生存を願う存在ですが、とにかく、遊真にとっての生きる目的を遊真に与えることができなかった存在だ、と強く思っています!!!ボーダーにおいても近界の地図を広げる役目を負い、読者にとっても近界民であるヴィザ翁の口からどういう物なのか言及される存在です。レプリカはその性質から、常に近界を思わせる存在です。更に、レプリカは玄界から近界へ消えることによって、遊真・修・チカちゃん・迅さんなどにとって完全な過去の存在となります。もちろんアフトの方に、レプリカ主体に視点を変えれば、レプリカは現在も生きているそうなのですが(遊真は栞ちゃんに頼んでこの答えを選択しました)遊真はボーダーのトリガーを握り、「A級になり」「玉狛第二で遠征部隊になる」ことを目標とします。遊真は修に与えられた生きる目的を継続しながら、「A級目指す理由が増えた」と、レプリカ先生を、修から与えられた自身の生きる目的の理由に組み込みます。更にこの組み込まれた理由としてのレプリカは、レプリカが選んだ状況ではありません。なぜならレプリカが半分に割れてアフトの船に乗って行ったのは、修の戦闘に遊真がレプリカを送ったからです。そしてこの状況の選択さえも、遊真は修によって与えられているのです。修に力がなかったから。
でもサイコーなことに、遊真はレプリカが消えた責任は自分にあるといい切ります。確かに選択したのは遊真です。レプリカが向こうに行き、修とチカちゃんがこちらで生きることを選んだのは自分だ、と言うのです!なんっっってサイコーなんだろう!地獄だ!!!何度考えてもこの遊真の発言はサイコー!!!(クソオタ発狂)遊真はウソをつくことがどういうことか知っています。だからこそ、屋上のシーンで交わされた発言について、私は何度も考えます。遊真はウソをついていないのだ……という考え方をするたび、この子は、本当に、強い!!!と、私は何度も泣きます。何度でも泣く。だからここで修も泣くんだなと思う。ここで修が自分の非力さを泣くのは、修の非力さによって状況を選択した遊真が、選択された現在を強く生きているからだ、と思って、私も泣いてしまうのだ……
レプリカ先生が常に過去であるのは、状況の選択を遊真に委ねているからです。自身での判断を伝えません。レプリカが遊真につまんないウソをつくのは、遊真にとっての生きる目的である修とチカちゃんのピンチについてだけです。そしてこのウソは「遊真がヴィザ翁との戦闘に集中できないと最悪死ぬから」ついたウソです。レプリカは遊真の生存を願う存在だから。状況に対して、レプリカはただただ遊真に提案をします。レプリカが遊真に提案したから、ふたりは過去に共に存在していたのです!夜のふたりの時間は確かに存在していたのです!レプリカは!与えられないけれど!遊真と!過去を!共有することができる!!!
ここで更に考えねばならないのは、遊真にとっての「夜」です。林藤さんとの夜のシーンがめちゃくちゃ好きなんです……が、いますごく眠いので、書きません。

眠いのでまた消化不良で記事を終えます。なんか何書いてるのかわからず書いてるのですが、自分の考えの整理って本当に難しいんだな……馬鹿なので永遠に答えを出せないのですが、でもつらつらダラダラ書いて、やっぱり遊真とレプリカはサイコーだな、と改めて思いました。これ誠実な記事じゃないのであとで読み返して自分をころしたくなるやつです。おわります。アニメまであとじゅうごふん……

遊真とチカちゃんと迅さんとSEとトリガーと私のグダグダ

個人的な思考の整理のための記事です。同じ話を何度もします。

今回はワールドトリガーが好きな話というより単純な思考整理のための記述です。前回は初記事なので、できるだけ大きめなところからワールドトリガーに対する好意の表明をしました。読んでくださった方ありがとうございました!
ただ、私は文章を書くのが苦手なのと、自分の意見を自信を持って受け入れることが苦手なので、(だから各キャラがそれぞれの頭で考えて行動するワートリがスカッとして好きで、更にこの問題に関する鳩原という話も好きなんですが)私の好意はただの読者の一意見です、とすごく念押しします。
今回は特に、自分に話を落とし込むための「ねえこれについて私はどう思う?」「私はこう思うよ〜」という記事、構成もクソもない長文散文クソオタ自問自答です。私の中でも正解はひとつじゃないし完全な正解があるかもしれないけど私には読み解けてない……頭の悪いただのいちクソオタクソフジョシなので万人のための正解である答えなんて出せません……でも書きます。
共感を得る目的で書いているブログではなく、私にとっての地獄の形成をしています。それがたまらなく好きなので!私の萌えは誰かの萎え。誰かと似たこといっててもこれは「私のワートリへの好意の表明」でこれは私の世界です。考えをたくさん文字に起こすようなブログをつくるのが久しぶりでうまく個人的な好意の表明をすることができてなかったらすみません。
長々と先制ブロックな弁明してすみません……私はただのクソオタクソフジョシです。



前回「状況に対してそれぞれが考えて答えを出す、ワールドトリガーの誠実な起承転結の結が好き」という話だったので、付随することからぐるぐる言葉にしていきたいと思い、今回は「発展の手段(起承転結の承)」を書きます。ワートリの起承転結の承っていっても、まず起の数からして死ぬほどいっぱいあるし、長編という物語の性質上「ある面では結である事柄が別の面では起である」ので……や〜〜〜もう、そこがサイッコーーーに気持ちいいんだけど……!今回は承として捉えた「遊真と迅さんとチカちゃんのSEとトリガーによる在り方」の一面に絞り、ただの「感想」を書きます。キャラクターの一面のみを切り取った話です。はじめにいうと、私はいちオタクとして遊真担であるという自覚があります。あと別にこれ書くために読み返したりしてないので、すごく曖昧なまま自分の読んだ記憶のままに感想を書いてます。ネタバレありのオチなし。

まとめると「SEやトリガーはキャラクターが問題に関しての選択をする幅を増やし、自身の在り方を発展させるためのひみつ道具」という話です。のび太に対する道具です。
SEやトリガーという発展の手段によって、キャラクターに提示されていた問題が変化し、選択された新たな世界へと移り、そこから更なる選択の世界への想像の橋がかかることがめちゃくちゃ楽しいです!ていう感想を、つらつら書きます。



遊真は有吾さんの黒トリによってSEを得ているため特例ですが、トリオンが多い人には副作用としてSEがある場合があり、作品の主人公四人のうち修を除く三人、遊真とチカちゃんと迅さんにはSEがあります。なぜか?三人は自分の存在そのものに「SE」という「力」を持っていることで、修よりも状況を選択することのできる点で差別化がなされているからだ、と私は思っています。修にとってはじめて得た「力」は「トリガー」で、その力によって現在(本編時間軸)自身の世界を切り開くためにあらゆる状況をたくさん選択し、常に「いまこの時」を過ごしています。過去(麟児さんとの回想)の修には玄界の日常から新世界である近界への選択権がありません。(これに付随する「修は持たざるメガネだからペンチを握れた」「麟児さんはトリガーを手にしてから消えた」「ボーダーは架け橋として機能するか」という話は絶対まとめられないので今回は置いておきます。なお私は修はSEを得ることはないと思っていますが、本編で得ることがあったらそれはそれです)

まず、力を持っている自分自身で選択してきた「過去」があり、選択した結果である「現在」があります。選択された過去→選択された現在。これが顕著なのは、チカちゃんだと思います。
チカちゃんは初登場時「トリガーを持たないけどSEによって近界民という敵の存在を感じる子」でした。別世界の象徴である近界民に、物語として干渉する力であるトリガーを持っていないけれど、SEという存在の副作用によって近界民に駆け寄るか逃げるかを選べる子です。修はボーダー入隊を果たすまで日常からの逸脱を果たすための選択権を持っていませんでしたが、チカちゃんは別の世界に対する選択権があります。そして、かつて「逃げる」を選択し友達と兄を失ったと思っているが故に「駆け寄る」が干渉する力は有していないため「気配を殺して自分を空っぽにする」子。私はここに「あわよくば干渉することができるのでは……」みたいな姿勢のチカちゃんを感じてます。かわいい……ッ!この頃のチカちゃんには「近界民の出現=問題の提示(起)」と「SEによる接近or逃避の選択=発展の手段(承)」の構造があり、更にがんじがらめの思考回路による「承の行き詰まり」があります。(想像の余地として、近界民に食べられちゃう、という手もありますが元も子もないですね)チカちゃんは、SEの選択をし尽くした過去→新世界の引き金であるトリガーを得る現在、の顕著な例です。
チカちゃんのSEがトリガーを得る前と大規模侵攻のはじめくらいしか明確に描写されていない(※出先で記憶で書いている曖昧な記事です、ここは特に後日要検証かも)のは、「チカちゃんの世界」の発展には「トリガーの力」が必要なためだと思います。チカちゃんには「修という持たざるが故の起」と重なる面があって、やり尽くしたSEという道を選択しなくていいように、トリガーという新たな道があります。「行き詰まったチカちゃんのSEという起」に対する「トリガー」、つまり新たな「発展の手段」の選択が増えていく面があり、そこが私はすごく面白いです!興奮します!
例えば、はじめてのレイジさんによる課題に対してずーっと打ち続けていた姿勢であったり、大砲みたいな威力の狙撃だったり、大規模侵攻の時のトリガー臨時接続だったり、ライトニングによる鉛弾の試行錯誤だったり……チカちゃんはトリガーとの関係を丁寧に描かれてるのが面白くて好きです。彼女にとっての新しい世界の提示だ〜〜〜!ってめちゃくちゃ興奮します!
(別の話ですが、麟児の失踪に対して泣くだけのチカちゃんは無力でかわいい!SEによる選択権があるからか、チカちゃんはボーダーの力を得る方ではなく空っぽの日々を過ごす在り方で自身の世界を閉ざしていたんだな〜と思いました。修は最初チカちゃんのボーダー入隊に反対するけどチカちゃんはちゃんと自分の考えによって自身の世界を開きます。チカちゃんは玉狛第二にて言葉をきちんと交わさない、思考の表明を言葉で行わないところもあって、そこも面白いです。人を撃てない問題で改めて思いましたが、チカちゃんはサイコーにこじれた精神とサイコーに屈強な意志を持つ印象があります。私は心底チカちゃんが好きです!)

また、力を持っている自分自身で選択してきた「現在」から、選択するための「未来」という面があります。選択された現在→選択される未来。迅さんはこの面でめちゃくちゃ顕著な存在ですね。
迅さんのは未来を選択し切り取ることでワールドトリガーの物語そのものを発展させていきます。その性質上、遊真やチカちゃんのSEよりずーっと多くの選択のパターンを有しています。この作品における中枢的な視点であるボーダーの対策の主軸が迅さんの未来視頼りなこともあるし、(城戸さんの目的に沿うことで了承を得るなど、選択に別の人の思考を取り込むことで交渉をしていて、巧みだ!すごく面白い!)読者としても迅さんの選択に身を委ねるしかないところがあります。迅さんのSEは本当に物語の発展の上では便利ですね……力が力として物語の根幹に活かされています。
しかし、迅さんには母と師匠を失った過去があります。これはなぜか?正直私にはひとつも答えが出せません。迅母については嵐山さんから三輪への発言のみで亡くなった時期が不明瞭なためなかなか判断しづらいですが、いや最上さんも判断しづらいけど……迅さんが風刃という黒トリガーの力を得る未来を選択したから?SEとノーマルトリガーの力のみでは最上さんの死は避けられない未来だったから?また、迅さんは三輪姉の生きている未来を選択しない現在を進んでいます。これもどうしてなのか迅さんからの視点ってあんまり感じたことないような……(別の話ですが、迅さんは修のことを助けて、選択しています。反対に、助けていないのか助けられなかったのかはわかりませんが、三輪姉の存在する現在は選択されなかった道です。修と三輪はお互いにそれを知らないけれど、読者である私は知っていて、修が三輪にチカちゃんの生存を委ねようと頼むシーン。三輪は修を蹴ります。この見事な地獄の形成に、クソオタの私は喜びのあまり発狂しています)
迅さんは万能ではありません。その象徴的なエピソードとして、スコーピオンを作った話が、私は本当に好きです!トリガーを発展の手段として、未来への更なる力として描写しています。また、執着して勝ち得た師匠の形見である「風刃」という力を、迅さんは自ら手放す未来を選択します。理由が理解できない風間さんに対して「最上さんは怒んない」という迅さんと、風間さんの沈黙の描写。玉狛に戻ってベッドに寝転ぶ迅さんは「未来はもう動き出してる」と呟きます。この流れ!SEの未来視の影響力が強すぎて、迅さんはトリガーの力をSEの方に委ねています。万能でないからこそ、より盤石な世界を築こうと暗躍しているように思いました。
迅さんは現在から未来への存在である反面、ノーマルトリガーで太刀川さんと戦っていた頃のことを「楽しかった」といい切る面や、大規模侵攻後に修母に頭を下げる面があります。一話冒頭や三輪姉のシーン同様、誰かの過去の領域を担うことが描写され、キャラクターの説得力を増します。更に、切り替えられない迅さんに唐沢さんは言葉をかけます。唐沢さんはラグビーやってたからね。私はここのシーンがすごく好きです。地獄だ、と思いました。迅さんは現在に在りながら未来に半身を委ねている人ですが、未来へ進めている歩数ぶんの過去を同時に背負います。なので、迅さんについては常にワクワクしてます!物語に干渉しまくれるキャラなので、ずるいと思うし、ア〜〜〜全部葦原先生の手のひらの上だ〜〜〜と強く感じることができるため、出る度「サイコー!」と叫んで発狂したくなります。

遊真は更に差別化されています。有吾さんの黒トリガーによって有吾さんのSEを得ます。不思議です。遊真は玄界の人間ではなく、近界民です。そこが、とっっっても、好きです!!!私は遊真は常に自身の「現在」を変化させていくキャラクターだと思っています。現在→現在。
遊真は常に死にかけです。本来なら死ぬはずの肉体を黒トリガーという力によって生きながらえている、特異な存在です。(「どんなキャラクターだって常に死の可能性があり、隊員はトリオン体という殻を持っている」という話は今回の話からズレているため割愛。私は遊真の黒トリ体は通常のトリオン体とは別のものと思っています)近界で力によって殺されかけ、力を失い、有吾さんの死と引き換えに黒トリガーという力を得て、「有吾さんを元に戻す術を探す」という目的のみで玄界へとやって来ている。はじめて修と出会った時の遊真は、黒トリガーによって「こちら」に干渉する近界民という作中の立ち位置です。それは遊真によって選択された現在でした。有吾さんから与えられた目的が見つからなかった遊真は、修によって新たな生きる目的を与えられます。そしてボーダーに入ってトリガーを得ます。遊真は与えられた現在から選択した現在へと生存を続けています。なのでレプリカ先生はいいます。「それを決めるのは私ではない ユーマ自身だ」
レプリカなき現在、ユーマは黒トリガーを身に纏いません。もちろん現在の遊真は近界民としての面ではなく、ボーダー隊員として存在しているからです!玉狛第二の隊服でスコーピオングラスホッパーを駆使して現在を生きている遊真に、私は、ここに、とてつもなく、興奮しています!!!すごく!!!サイコー!!!って思う。だって病院の屋上のシーンがあるから。遊真は常に現在を選択しています。クソオタなので遊真本当に好きです……
ある状況下でキャラクターはそれぞれ頭を働かせて、何かしらの言動を行います。フキダシやコマの描写あるなしに関わらず、コマとコマの間やカメラに映されていない場所においても、ワートリのキャラはそれぞれが生きています。前記事でぐだぐだ言いましたが、こうした群像劇の世界で、遊真はSEによって相手の嘘を見抜くことができます。相手のフキダシは遊真にとって「自身の現在を選別する材料」になり得ます。相手のフキダシひとつを切り取り、自分の中で発展させるためのもの、前回の記事でいうところの、のび太にとってのひみつ道具なわけです。「発展の手段」です。自分の考え、自分の世界を発展させるためのSE。現在の選択をするための道具です。遊真は嘘を見抜いて、相手の嘘に対して自分の考えを告げます。「つまんないウソ」だったり「おもしろいウソ」だったり、遊真は相手の嘘を自身の考えで判断し、現在の自分の在り方を選択します。そして相手に突き付けます。めちゃくちゃヤバイ……サイコーでは?と思う。誠実です。

既にSE所持者として明記されているキャラクターである、天羽・菊地原・村上・カゲ・陽太郎のSEについて(別の話ですが既に顔見せしているキャラがSE所持者として紹介されることを個人的にちょっとだけ期待してます)も、物語の現在の時間軸〜より以前に、自身の副作用との折り合いがある程度ついているように思ってます。天羽は上層部にSEのみの能力提供を行うし、菊地原は風間隊の隊員としてSEの聴覚を共有するし、村上くんはSEによる幼少期からの悩みを荒船と来馬さんにより解消していて、カゲは現在はSEで他者からの感情を判別して行動している、思ってます。陽太郎の動物と会話できるってSEは、遊真の怒りを感じ取るシーンやヒュースとの触れ合いのシーンがそうなのか……?と思ってるけど、私は陽太郎をこわいと思いすぎててあんまり気づいてない……すみません。ただ、なんとなく、SEは自分が自分であることの選択をするための判断材料なかんじがしてます。キャラクターの世界を発展させる手段です。

選択の世界に橋がかかる、とはじめに書きましたが、選択されなかった一面は読者の想像の余地であって、ワールドトリガーの本編ではないけれど、余地があるというところも含めてワールドトリガーという作品である、というところがおもしろいな〜好きだな〜という話でした。書いててよくわかんなくなってるので、唐突にやめます。思考の整理にならなかったし、文章を書く訓練も失敗しました。でも私はぐるぐる考え続けるのが好きで、それができるのが楽しいので……これはこれで私のための記事になったなと思います。あとで自分でツッコミたくなることいっぱいありそう。ツイッターだとあんまりダラダラ書けないから、こういうことできる場所としてブログ作ってよかったなとちょっと思ってます。でも馬鹿なのですぐ飽きる。
私は私のための地獄を形成するのが好きです。まとまらないのでおわります。

ワールドトリガーは誠実だという話

はじめまして。そらゆめと申します。

個人サイトを一応持っているので、まとめのまとめはそっちにまかせ、ツイッターだけではまとまらない頭を気軽にかき混ぜる場所を持とうと思いブログを作りました。たぶんすぐ飽きる。
長文と散文、矛盾ばかり、同じ話を何度もします。すべての文章の主体は私で、文章を書くのがとても苦手なので、なんとか訓練しようという目的も兼ねています。あと、似たようなこといってる人がいるから私がいう必要ないよな〜〜〜と好意の表明をサボってばっかりだったので……やめようと思って……
拙かろうが自分の言葉で全力で「好きです!!!」ていう場所です。
 
初記事なので、いま超絶ハマっている、ワールドトリガーの誠実さが好きだということをつらつら書きます。本誌ネタバレあるかも。オチはないです。
 
 
 
はじめに、私はワールドトリガーが好きです!なぜかというと誠実だからです。誠実とはまじめで真心があることだと思っています。これは私が作品に惹かれるポイントとして最も顕著なところで、ワールドトリガーはずば抜けて誠実な作品だと思うので心底好きです。簡単にまとめると「それぞれが状況に対して考えて行動する」のが好きという話で終わりです。
 
 
 
私は幼少の頃からドラえもんを愛しています。これは母(※漫画やアニメに対して好印象を抱いていなかった)が幼少の頃の私に視聴を許した数少ない作品であると共に、とても誠実な作品だからです。
ドラえもんは「問題の提示」としてののび太、「発展の手段」としての道具、「関係の破綻」としてののび太と道具、「問題の再提示」としてののび太による理解、があります。そうでないものもたくさんあり、そうでないものも好きですが、幼少の私はこの起承転結の文脈を愛していました。
例えば、ジャイアンにいじめられたりテストの結果が散々だったのび太が、安息の場である自室でのんびりドラ焼きを食べているドラえもんの元にやってきて、「今度という今度はゆるせない!」「楽していい点とりたい!」と泣きついて道具をせびります。ここで私は既に大量の期待でワクワクします。どうしてジャイアンのび太をいじめたのか、どうしてのび太はゆるせないのか、楽することってどんなことだろう、この問題に対してどんな道具か出るんだろう、と心を躍らせながら想像します。
ドラえもんはポケットをガサゴソ、おきまりのSEと共に道具を提示します。私はドラえもんの説明を聞きながら、次はのび太がどんな失敗をするのかを期待し想像します。また、私ならこの状況でどうやって道具を駆使するか、というありえない(なぜならのび太は私ではないから)パターンを想像します。
大抵の場合、のび太ドラえもんの解説を最後まで聞かず、結果として道具の使い方を誤ります。関係の破綻です。幼少の私はこの段階に入ると、もう、脳みそがパンクしています。ここはいわば少年漫画でいう宿敵との対決のシーンです。ワクワクの絶頂ですが、「ここで終わればいいのに!」とは微塵も思えない。なぜならドラえもんは誠実だから。誰に?視聴者である私に。
誤って使用された道具と使用者ののび太の関係は、なんだかんだ決着をつけられます。結果としてのび太は痛い目をみたり、安堵したり、考え込んだり、いろいろと反応しますが、とにかく、問題を理解します。もしくは理解しようとします。私にとって、ドラえもんの最も誠実だと思うところはこの段階です。起承転結の結の部分。ある面に対して結末を用意してくれるけれど、決して全てへの正解を出さない誠実さがあるからです。パンクした脳みそは冷却され、本来の問題を再提示します。「君ならどうやって問題を解決する?」道具は問題を一面のみ取り上げて発展させるための手段であり、のび太ジャイアンのいじめに道具をこう使って対処しようとして使い方を誤ってこうなったよ、テストの点を楽して稼ごうとしてやりすぎてこうなったよ、あなたはどう思う?……という視点です。やさしい視点だな〜と強く思います。なぜなら、のび太は自身をなんだかんだ受け入れているから。ありのままの結果を堂々と見せてくれるので、ホッとします。そして不安になります。これはもっと恐ろしい事態になっていたのではないか?という余韻があるのです。道具の使い方を教えてくれるドラえもんが常にいるとは限らない、のび太がもっとひどい間違いを犯していたら、という想像から、私は慎重になります。そこで「良い悪いでは問題は終わらない」ということに気づきます。たとえのび太が間違えず復讐できたりいい点がとれたりしても、ジャイアンによるいじめが起こったことや悪い点をとったことは問題として残るし、道具という手段には欠陥があることが視聴者である私にはわかっています。そしてそれは「良い悪い」では割り切れない問題です。その上で、「君ならどうやって問題を解決する?」私は想像し続けます。正解は提示されず、求められません。
私はこの結の在り方がとても好きです。物語にもキャラにも状況にも視聴者にも誠実な作品だと思います。状況の結末として、物語の提示はあるけれど、万人に対する正解がないから。どこを切り取ってもいいから。切り取っても楽しいから。楽しい!そう、とっても楽しいんです。問題の提示、発展の手段、関係の破綻、からの、問題の再提示は、想像するのが楽しい!想像を否定されない!けれど、物語のある面に対してきちんと結末を用意してくれる楽しさ!!!このパターンに対してはこういう結末だけど、別の時は別の対応をするよ、という、一応の決着があるから、それが私には誠実に思えます。全てを投げっぱなしでないのが大切なポイントです。状況を一貫して提示してひとまず終わる。まじめで真心があるように感じて、信頼できて、楽しい。
私はそうしたドラえもん教育をされ、セーラームーンのほたるちゃんと神風怪盗ジャンヌのフィンとCCさくらのともよちゃんに一目惚れしジャンプとサンデーとちゃおを購読し他誌の作品も数多追いかけポケモンをプレイしてテンミリオンというブラウザゲームにより完全体となり、さまざまなことが起きて、ワートリを知って、今に至ります。これを書くと更に長くなるので今回は割愛。ちなみに漫画やアニメに好印象を抱いていなかった母との関係は、とても、やばかった。
 
ワールドトリガーは誠実です。
私は物語を考える上で、ある状況の中でこの人はこういう人、ということが、きちんと描かれていることがとても好きです。もちろんギャップ萌えといわれるものも好きです。そうした余地を含めて、この人はこういう人、という描かれ方がなされることに重きを置いています。多層的な構造を感じる物語がとても好きです。
ワートリにおいて最も信頼できると思うのは「キャラクターそれぞれが状況に対して自身の頭で考え動くこと」です。はっきりいいます。それが、たまらなく、愛おしいです!!!
例えば、やっぱり、三雲修による記者会見。いち読者である私にとってカタルシスを与えた回だと思います。(ちなみに少年漫画の文脈で最も興奮したのは「敵の位置を教えろ!」の回で、個人的なオタク宗派として好きな回は病院の屋上の回で、腐女子としては当真の「俺らにかかりゃ楽勝だぜ」の回です)
誰もが自身の頭で考えているシーン。いやワートリは常にみんな自身の頭で考えているけど……「万人のための答えは存在しない」「けれど僕はこういう答えを提示する」という結の在り方が、前述したように私は本当に好きなのです。既に物語の上で築いてきた状況があって、それを知っている読者である私は、だって修はあの答えを出す子だし、根付さんも己の答えを提示していたし、城戸さんはもちろん、林藤さんも忍田さんも唐沢さんも鬼怒田さんも自身の頭で考えて答えを提示していることを知っています。遊真も修母も名無しのマスコミたちも、みんな状況に対する在り方の答えを出していて、そこがすごく好きです。良い悪いじゃなくて、正解でもなくて、だからとてもまじめだと思います。(有吾さん曰く「正解はひとつじゃない」)何より説得力があることの嬉しさと鬱屈からの浄化がハンパじゃなかった。だって私と修じゃ考えることが全然まったく違う。倫理観の違う子を鮮やかに描くさまがすごいなぁと思います。失った自我の獲得だなぁと思って、作者のキャラへの真心が込められているんだと強く思わされました。私は林藤さんの対応がこわくてすごいな、と思うのと、修母は強いな、というのと、それぞれの関わり方が顕著だな、ということを、考えたりしたけどこの話は置いておきます。
また、例えば、栞ちゃんがチカちゃんを甘やかす理由。私はレイジさんと同じような視点でチカちゃんを見ていたので、栞ちゃんの対応を疑問に思いましたが、次の回で明かされた「チカちゃんには自分を大切にしてほしい」という理由には感激しました。栞ちゃん栞ちゃんの頭で考えて、考えたことを実行しています。レイジさんはそれを踏まえて更に自分で考えます。そしてごはんに行きます。レイジさんの考え方が明かされます。この描かれ方に、こんなに丁寧な物語の掬い方があるのか……と私は頭を打ち付けました。あるひとつの状況をそれぞれがそれぞれで捉えていくことが、とても誠実だと思うのです。
きわめつけは、122話の木虎による修への言葉。多面的な面白さのある作品なので、毎回別の視点から面白いと思うのですが、この回はしみじみと「万人のための正解はない」「あなたと私は違う」「人は誰しもあなたの思うように親切にするわけではない」「けれど頭を下げたあなたに私が考えていたことを教えてあげる」ということを考えてしまい、木虎なりの答え方なんだと思いました……すごく好きで、本当に、やばい。修の尋ね方に眉をひそめる木虎がすっっっごく好きです!木虎には木虎の世界があり、修は木虎の言葉を受けた上で、スパイダーを選択します。修が自身の世界を開いていく言葉や在り方がきちんと描かれていて、私は意味もなく何度も読み返して、じんわりと熱いものが込み上げます。随所の対処がすごく誠実なんです……まじめで真心があるんです……
 
全ての状況に対してキャラクターが自身の頭に誠実に行動します。「のび太のび太の頭でこの状況に対してこうやって道具を使うことで状況が変化する」という(一応)一話完結の思想が、ワートリでは「変化していく状況の中でそれぞれがそれぞれの頭で行動することで更に状況が変化する」という長編の思想として、不確定な世界でそれぞれのキャラクターが息づいている、という確たる世界があります。私はそこに更に誠実さ、つまり、まじめさと真心を感じます。
 
また、藤子・F・不二雄の「うちの石炭紀」という短編漫画の終わり方がすごく好きなのですが、これも、ワールドトリガーの物語への誠実さと似ていると思っています。簡単にまとめると、「家族のいない時にすごく頭のいいゴキブリを捕まえた主人公はそいつを飼うことにした、ゴキブリはメキメキと知能を発達させ、ついには主人公以上の頭脳を身につけて台所を占拠、最後にはゴキブリが仲間を引き連れて冷蔵庫をロケットに改造して空へと飛び立つ、主人公は冷蔵庫がなくなった理由を家族にどう説明するか考える」という話。いろいろおもしろくて重ね合わせたりするのですが、話そのものは淡々と状況のみを伝えてくれます。そして主人公はこの状況に対して自分の頭で考えます。結果として、何も答えを出さずに、ゴキブリたちによる理不尽な状況は空へと飛び立ち消えていきます。これが、ワートリの世界の描かれ方に似ていると思っています。修は世界に迎合されません。終始、修は自身のすべきと思うことをします。いざという時それができない人間である自覚があるから、考えて、行動して、別の世界を切り開こうとします。しかし世界はキャラクターを迎合しません。なぜならキャラのみでなく、世界の在り方に対してもまじめで真心があるから。だから、遊真はレプリカ先生と別れても修に笑いかけることができるのです。チカちゃんは人を撃とうとするし、迅さんは暗躍します。
 
そして私がいいな〜と思う、好きなところは、物語が多面的だからどこを切り取ってもおもしろくて、読者の方がそれぞれいろんな理由でワールドトリガーを読んでいること。私は頭が悪いので、考察やら資料としての読み解き方やらはまるきり出来ないのですが、頭悪い私は私なりにいろんな見方があるんだ!て思えるのが楽しくて仕方ないです。読み手の方もかなり誠実に、まじめで真心を込めて作品に向き合ってるんだなって思うことが多くて、単純にすごくて、だからこういうのを書いてるというのもあります。すみません。私も好きなものを好きといえるようになろう……
 
物語に対して、キャラクターに対して、状況に対して、読者に対して、葦原先生は誠実です。ワールドトリガーが誠実であることに私は安心し、とても信頼を寄せています。この作品を楽しめるのが嬉しく、今後も楽しんでいきたいと思っています。オチはないです。